非血縁家族の脱逸脱化

「血縁によらない親子における子供の意識 養子・里子の聞き取り調査から」

6月17日(火)本郷キャンパス

家族の多様化が言われるようになった現在、課題として表れてくるのが逸脱しされた家族関係・親子関係、今回では非血縁家族が取り上げられているが同性愛者(カリフォルニアで容認されたとのニュース)の夫婦の問題も同様、をどのように社会で承認していくかである、と発表者の野辺(東大大学院)は言う。そこでは政策がモデルとする親子転換、すなわち「血縁モデル」から「養育モデル」への転換が必要となり、制度や法の整備が問題となっていく。だがその障害として立ちはだかるのは日本において依然として強固である(政策でも人々の意識でも)血縁重視の価値観である。
では、どのような過程を経て非血縁親子が形成されていくのだろうか。養親希望者の多くは不妊治療経験者であり、実子を持つことが不可能になった結果、養子縁組を選択する。そこには遺伝子的なつながりがある子供を生むことへのこだわりから、子供を育てることへの意識転換がある。社会的な傾向として実子を求める方向は存在し(「所有」の原理とも関係するのかも…)、その中でどにょうにして非血縁親子が親子関係を構築していくかをみていくこと、それによって非血縁家族の脱逸脱化への契機を探求するのが野辺の研究の目的である。
今回の発表で野辺は養子・里子が親子関係構築にどのような戦略を用いているのかをインタビューをもとに導き出していた。それは①自らの親子関係の正当性を提示するための戦略、②親子関係を維持するための戦略、③社会のまなざしに対処する戦略の三つが主張される。一つ目に関しては普通でうまくいっている家庭として自らの家族を認識することで正当性を意識することがあり、そして二つ目では養親に養子縁組のことを聞かないこと・実親に会わない、ということが挙げられる。そして最後に、パッシング、と言う周囲には語らない選択がとられるのが三つ目に該当する。ここで、興味深いのは養子縁組に関する告知は「親から子どもへ」だけでなく、「子→恋人」「子→友人」「子→その子ども」という波及を伴い続けることである。
次に、血縁・非血縁それぞれの親子関係への意識が説明される。養(里)親子関係に対する意識では、「普通の親子である」と説明される傾向や、叱られたときに里子であることと結び付けてしまうこと、代替不可能性の不在への苦痛があげられる。そして実親子関係に対しては家族とも親とも認知されず、「特別な他人」、や「DNAレベル」での仲間と意識される結果も表れている。
また、親子意識の構築については、子供の側から親子関係の構築への意識が向けられることはないのだが、真実告知や実親との再会で養親との関係が変化したと答えたインフォーマントが居なかったことが提示される。他方、そうして親子関係が維持され忌避されることがないにも拘らず、「普通」の家庭や実子を求めるという、非血縁家族の親子意識の世代間継承がないことが示される。野辺は、実子をもてない結果としての非血縁家族というプロセスに違和感を持つ。そもそも初めから養子・里子を持つという選択肢はないのか??

野辺の発表に対する上野千鶴子の批判は次のようなものがあった。
1.「脱逸脱化」についての「逸脱」に対する「正常」が、すなわち「正常な家族」とされる近代の家族像が出発点にあること、その家族像自体が歴史的に非常に浅いものであるということの明記が必要。
2.研究にジェンダーの視点が多く抜けていること(インフォーマントが男か女か、また、実親にしても養親にしても父・母を別ではなく「親」としてひとくくりにしてしまうことが問題)。
3.インタビューの際、ライフヒストリーを追う必要があるのではないか(幼年期はどうであったか→少年期→青年期…)。そこでどのようにしてナラティヴ(語り)として養子縁組のことが出てくるのかが重要。

このような研究が進むことで実子という選択肢が相対化され多様性に開かれていくことに期待する。相対化の言説はポストモダン以降社会に多く蔓延していると思うのだがまだまだ、まだまだであるのが実社会なのだ。頑張って発信していきたい

終了後には車椅子と店の階段の話をしていたのだと思う、先生は「ここにいる男たちも力がなさそうだし」みたいに僕たち(男三人)のことを大きい声で言ってた。なんと口の悪い…
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by kokem-omo | 2008-06-17 23:05  

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