「オウム」と人権

森達也『A』。
オウム真理教を撮影したドキュメンタリー映画。

「犯罪者は早く死ね、社会からいなくなれ」というような社会的風潮が日本ではいかにすさまじいものかが、「オウム」に対する先入見が薄れた現在、かなりクリアに観察でき、かつ驚きに耐えない秀作である。

最も見るに耐えなかった場面。
亀戸での映像。信者に職務質問をかけ、任意同行を求める刑事。執拗に迫るがこれに応じないことにいらだちを募らせ、小さい体当たり等でこつきはじめる。それでも避けようとする信者を追いかけ、投げ飛ばす(中立的な観点で見ても、もみ合って刑事がおして両者共に倒れた)。刑事は足の痛みを必要以上に訴え、信者はそのまま公務執行妨害で逮捕され、連行。
この後、映画用に撮影したテープがあったからこそこの信者は釈放されたが、通常であるならばそのまま送検され、起訴されていただろう。
別件逮捕で、書類送検、起訴。なおかつ日本の起訴率は99,8%という驚異的な数字。

なんでもありなのか。非常に憤りを感じ、驚いた。国家権力といわれても普段実感することは少ないが、これは明らかにおかしい。明らかにおかしい。

テレビ局の対応としてもむちゃくちゃである。オウムの放送を担当したディレクターは会議といっていつまでも取り合わないし、受付の社員は個人的な情報として名を問われても応えない。社員なのに。

面白かったのが元一橋の福田雅章教授がこの映画の中心になっていた広報担当らと共にゼミ合宿をし議論していたこと。その後一橋のキャンパスが移り研究室でお茶をしていたこと。さすが。

森はこの映画を撮るにあたって、制作会社と対立。制作会社はオウム=悪の構図で撮影することを望んでいたのだが、森は中立的に描きたかったのだ。この映画がどこまで真実かは不明だが、普段覆われていて見えることができない社会がそこにはあり、示唆に富む作品であった。

さっきも言ったが今でこそこのような「オウム」というフィルターが薄い状態で人権の問題として観ることができ、いかに日本社会がおかしいかがわかるが、
当時、このような視点で見ることができたのか。
逆に考えると、このような「オウム=悪」のバイアスの濃淡の落差には何が存在しているのだろうか。

一つはメディアの問題である。宮台は指摘する。中立的で穏健な姿勢で報道すると、スペクタクルが減少し、エンターテイメント性にかける報道となってしまう。そうなると、そのテレビ局の番組の視聴者は減少し、会社は大きな損益を被ることになる。したがって、他局に劣るような放映は極力避けなければならない。いくら内容が愚劣でお茶の間的であっても、おもしろい=売れる映像を流し続けなければならない。メディアが大衆側の権力に追従しなければならない一例で、これはブルデュー(『メディア批判』)も指摘し、メディアの界の純粋性を重視すべきだと述べる。アメリカでは9.11においてビル崩壊の映像の有害性を危惧したABCテレビが規制を始めたところ、視聴率が大きくさがった。その結果親会社であるディズニーの社長からテレビ局が叱責を受けたとのことだ(『挑発する知』)。
9.11にしても、北朝鮮報道にしても、オウムにしてもである。おもしろおかしく、善悪をわかり易く、悪は悪でたたきまくるような報道しかできない。
みのもんたは動物奇想天外以外には出ないで欲しい(高松の事件)。

もう一つは日本人のメンタリティの問題である。「悪」を徹底的にたたき、排除してしまおうとすること。これはムラ社会の論理である。(ここでは大澤『帝国的ナショナリズム』を参照)
これは米国と比較してみると明らかになる。ホワイトハウスで不倫スキャンダルを起こしたクリントン大統領の支持率は、その大々的な報道にもかかわらずそれほど低下しなかった。なぜか。それはかつての共同体の参入の手順から見られることができる。その誓約の行為において、自らの堕落を告白することが、好意的に迎えられることにつながるのである。つまり、共同体における善や悪の受容そのものに、悪や堕落への逸脱が内在しているのである。だれもが、犯罪者になる可能性を持っているし、それが自分でないとは100%言い切れない。自らのうちに悪が内在していること、それが他の人でも同じであることに自覚的であるのだ。

したがって誤った発言をしたみのもんた叩きをする僕自身の心情もムラの論理に起因する。
純粋に正義を希求する若さには「赦し」が内在されておらず、したがって自分の引き起こす悪行により再起不能になるであろう。これが日本人の心象の一つとも言うことができる。あるいは、いざとなれば知らないふりをするか。

それに加えてネオリベ的な自己責任の議論がこれに加わる。社会保障を手薄にして、それによって発生した劣悪な生活環境から犯罪が発生すると、セキュリティを上げるべきという議論に直結させる。貧困の連鎖、生活苦の連鎖から抜け出すことは世代を超えても困難になる。徴兵制が生まれても戦場にいくのは彼らになる。関係のないところにまで発展したが、フーコーの言う人種の分断が今起きている。

まあそれはいいが、いかに現在の社会が綺麗な部分しか表出していないか、ということを実感した。
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by kokem-omo | 2007-12-16 23:42  

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