ミシェル・フーコーの刑罰システム概論

 本件は,当時18歳になって間もない少年であった被告人が,平成11年4月14日の白昼,配水管の検査を装って上がり込んだ山口県光市内のアパートの一室において,当時23歳の主婦(以下「被害者」という。)を強姦しようとしたが,激しく抵抗されたため,被害者を殺害した上で姦淫し,その後,同所において,激しく泣き続ける当時生後11か月の被害者の長女(以下「被害児」という。)をも殺害し,さらに,被害者管理の現金等在中の財布1個を窃取した,という殺人,強姦致死,窃盗被告事件(いわゆる「光市母子殺害事件」)に関する上告審判決である。
  1審で検察官は死刑を求刑したが,1審判決(山口地判平14.3.22公刊物未登載)は,本件の罪質,身勝手かつ短絡的な動機,残忍かつ冷酷な犯行態様,結果の重大性,遺族の峻烈な被害感情,社会的影響の大きさ等を併せ考慮すると,被告人の刑責は極めて重大であり,年長少年であり死刑の選択が可能な被告人に対しては,死刑を選択することも十分検討されるべきであるとしつつ,〔イ〕各殺人についての計画性まではないこと,〔ロ〕被告人には他人の殺害又は重大な傷害を目的とした犯行がこれまでになく,犯罪的傾向が顕著であるとはいえないこと,〔ハ〕被告人は犯行当時18歳と30日の少年であり,内面の未熟さが顕著であり,不遇な家庭環境や,被告人なりの反省の情が芽生えるに至ったものと評価できることなどに照らすと,矯正教育による改善更生の可能性がないとはいい難いことなどの事情に加え,近時の裁判例との比較,少年法の立法趣旨等を総合考慮すると,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないとまではいえず,被告人に対しては無期懲役をもって,矯正による罪の償いをさせるのが相当であるとした…  1

□はじめに
 今回の発表は、ミシェル・フーコー 2  の刑罰システムの概略を提示することを目的とする。
 刑罰の変遷により、処罰するためには被告人の内面を明かすことが必要となった。故意の犯行なのか、金銭目当ての犯行か、日ごろの屈辱からの犯行か。法廷においてこうしたことが考慮されるようになった。だが何の動機のない場合はどうすればいいのか。ここで被告人の内面を説明するために精神医学が司法の場に呼び出される。心の専門家は次々と人間の内面を説明していくのだが、同時に様々なことを決定付けていく。「理由がないのか、ではあなたの中の狂気が犯罪を起こしたのだね。」「あなたは狂人の徴候をもっているよ。」「君の性質はひょっとしたら社会にとってかなり危険なものかもしれない。」こうして狂気や危険人物という概念が普及していく。同時に監獄という処罰の場では「非行者」と呼ばれる人たちが生み出されていく。危険人物、非行者として決定付けられた人々が社会から虐げられていく。「格差社会」でのもう一つの問題は言説、レッテル張りによる人種の断片化であり、そうして間接的に行使されていく殺す権利なのである。
 以下、フーコーの議論の解説としての役割も果たせるように、展開していきたい。

□刑罰の変遷
 ここでは酒井(1998)3  の議論を要約する形で刑罰の変遷を提示したい。
 かつての古典派(旧派)刑法学においては応報原理がその中心であった。これは「犯罪と刑罰の等価交換」を前提としている。すなわち、法律違反者の具体的な環境や状況がどのようなものであっても、犯罪行為をそれと等価とみなされる刑罰に対応させることである。犯罪が起こした害悪は、「目には目を…」の如く、それと同じ害悪・苦痛をもって罰せられる。
 応報原理の中核には自由意志と責任がある。裁かれる人物は、他にも選択肢があったにも関わらず、自分の意志で犯罪という道を選んだ、それゆえにその犯罪の責任を負わなければならない、とされる。こうした自由意志と責任の原理の背景には、抽象的理性的人間像が存在する。人間は皆理性的な存在であり、何が悪いかは判断できるのである、また判断できるようになるのである、というような人間像を背景とする。
 フォイエルバッハ 4  は功利主義に基づいて「一般予防」の概念を刑罰の目的とする。犯罪にはどのような罰が加えられるかを人々に明示することで、その「威嚇」の効果を刑罰法規に持たせる。そうして犯罪を心理的に抑止させようとするものである。華々しい身体刑の見せしめがそれに当たるだろう。
 これはカント 5  の議論の抽象性を批判し、成立したものである。カントは「同害報復論」にもとづく絶対応報論を唱えた。その原則である、個人は他の個人の目的のための手段とされてはならない、ということを背景に、刑罰へいかなる目的を付与することも退けるのである。ある人が、見せしめによって、他の人たちが犯罪を思いとどまることへの手段になってはならない。フォイエルバッハはこのカントの自己目的性を退け、功利主義的にその予防の効果へと目を向けるのだ。
 このような古典学派の議論はまさに「罪刑法定主義」と呼ばれるものである。「法律なければ犯罪なし、法律なければ刑罰なし。」法律違反者はその行為と法とをつきあわせるなかで初めて現れてくる。死刑制度を可能にするのも、殺人には殺人をというこの応報原理の中だけなのである。

 そして産業社会が発展し社会体の統制の必要が増していくなかで、古典学派に代わり近代学派(新派)刑法学が中心となってくる。これは応報刑でなく目的刑を用いる。刑罰の正当化の根拠を「法秩序維持の必然性」に求め、刑罰を「社会のための防衛手段」と位置づけるのである。その犯罪の原因は何であったのか、そこを突き止め治療し、または抹消すれば社会の安全は守られるはずである。刑罰は矯正の手段となる。
 ここで生じるのは処罰の「個人化」である。市民のような抽象的個人でなく、具体的個人に照準を合わせ、犯罪の原因の因果的追究へと赴く。つまり応報原理のように盲目的な制裁を課すのでなく、当時の被告人の状況はどのようなものであったのか、周囲の環境はどうだったのか、などを考慮する。そうして「事実」に基づいた刑罰が治療・矯正として行われていく。
 確かに統計学や確率論の発展により因果性の追及は確実なものとなる。十九世紀に現れた人間像はもはや因果性を免れえるものはなにもない。だがこれはこれまで明白に理解することができた因果関係の、外の領域にまで及ぶことになる。どれだけその追求の拡大が可能なのか。新しい刑罰・司法システムは不安と共に出発する。

□精神医学と司法

犯行の動機がまったくわからないような人、そして事実は認識しており、自分が起こしたことを完全に自覚していたことも認めている、だがそれ以外は裁判官たちの前で黙ったままでいるような人を、どのようにして処罰することができるでしょうか  6。
 
 新派刑法学では、刑罰は矯正を目的とする。犯罪の原因を隅々まで追究し、その根本から治療し、矯正して危険性を持たなくなるまで社会へ返してはならないのである。そこではもはや、犯行の事実を認めるだけでは十分ではないのである。なぜ殺害してしまったのか。金銭が目的か。そもそも故意であるのか。どういう状況に追い込まれていたのか。犯罪に至った人物の内面において、どこが問題なのか、どこを治療すべきなのか、どこが社会と相容れない部分であるのか、このようなことを明らかにする必要があるのだ。こうして処罰の理由が、その犯行の理由に直接的に結びつく。「やむを得ず殺してしまったのか、刑を軽くしてあげよう。」「むしゃくしゃしてやった?身勝手だ、厳罰を科さなければ。」
 したがって被告人の内面が明らかでない場合、いかにして処罰することができるだろうか。どのような刑を言い渡したらいいのだろうか。これは法曹たちには解決することができない難問なのである。こうして「動機の専門家」としての精神科医の介入が、司法にとって必要となってくる。

精神科医を、道徳の証人たちを召喚し、妹には被告人が優しかったかどうか尋ね、両親には彼の幼少期について問う。こういうことが最も優れた証拠なのです。裁かれるのは、犯罪よりも犯罪者の方であり、そしてある処罰を課すか否かということを正当化するのは、まさにこうして引き出される知識なのです  7。

 精神医学は犯罪者の内面を分析して説明する。人間の内面の領域にまでその手を伸ばし、犯罪者の性向、犯行の動機を理論付けていく。こうしてあらゆる行動や徴候、傾向、性癖、性向などがその材料、証拠として用いられていくのだ。もはや因果性を免れえるものは何もないのである。犯罪者の内面への明確さは、この「医学」の名における科学性に裏付けられる。裁判官はこの医学の科学という名の客観性に安心し、自分たちの判断に自信をもつことができるようになったのだ。
 そしてその説明として使用される概念の一つが「狂気」なのである。十八世紀末までは、心神喪失、痴愚、狂乱、いずれの場合も、決定的な状態にしても一時的な発作にしても、狂気は数多くの充分にそれとわかる徴候によって現れていた。だが精神医学が司法に介入していく過程で、狂気が別のところで現れてくる。つまり、精神医学はまったく理由なく行われた犯罪において、その犯行の不可解さを説明する手段として、「狂気」という概念を取り出し、犯罪者に貼り付けていくのである。これまで何の狂気の徴候も示さなかった人物が、犯行の理由の説明として狂人とされていく。殺人偏執狂、性的倒錯者、背徳症、本能の錯乱。精神科医たちだけが見つけ出すことのできる狂気が誕生する。言い換えると、「狂気」の使用権を精神医学が特許として獲得したということなのだ。


□危険人物の誕生
 ここでは精神医学により、どのように「危険」という性質を付与される人たちが生み出されていくのかを提示していきたい。上のように生み出された狂気がどのように社会の中で機能していくのか、まず社会におけるその役割に注目していきたい。

精神医学が、ある個人を危険なものとして収容させる権利を自分のものとする際には、狂気は危険なものだ・・・、ということを描き出す必要があった。そこで彼らは、すべての犯罪の奥底に若干の狂気がある、としたわけです。犯罪の背後に狂気の危険があると示されると、その逆に、狂気の背後には犯罪の危険があるということになる  8。

 こうして犯罪と狂気が極めて強く結びつく。刑罰は、犯罪者における犯行の理由に基づくその危険性、病理の部分を矯正しなければならなかった。危険を除去し、それから社会復帰させる必要があるのだ。そして不可解な犯罪の場合は狂気がその原因とされる。犯罪の原因とされる狂気は、治療・除去すべき危険なものなのである。犯罪、狂気、危険の一体化。
 ここで明らかになるのは精神医学のもう一つの役割、公衆衛生学としての機能である。「個々人の間、家族、職場、社会全体において蔓延する無秩序、病理の問題を解決できるのはまさにわれわれなのである。」「危険を診断し、危険人物を浮かび上がらせ、司法と協力して社会の安全を守るのだ。」こうして危険の発見による秩序維持という公衆衛生学としての機能の必要性と、矯正のための刑罰における個々人の内面性の提供の必要性、この二つの必要性の適合が精神医学の刑罰制度への介入を強力にさせたのである。

□監獄、排除
 犯罪-狂気-危険の結びつきを前面に押し出す精神医学。それによって社会の安全を守るため、社会から隔離するために収容、排除、抹殺される必要のある「危険人物」という人種が作り出されていく。そして危険な人たちを生み出していくもう一つのシステムが監獄なのである。
 新派刑法学では刑罰の目的は矯正であった。改革者や立法者たちは犯罪者を一定期間収容することで矯正を行い、社会復帰させるという役割を監獄に期待した。しかし実際にはこのような理想的な役目を監獄が果たすことはない。監獄が全面的に機能しているのは、その「循環的な排除」  9 を行う面だけである。
 循環的な排除とはどういうことだろうか。まず、社会は人々を監獄へ送ることで排除する。そして監獄では彼らはその過酷な環境、悲惨な待遇により打ち砕かれ、排除される。そうして一通り打ち砕かれた後、彼らは監獄から取り除かれ、社会へ送り出される。ここで社会に適応していくことが困難であるのは明白である。監獄での生活、耐え忍んだ境遇、それら全てのせいで社会は必ず彼らを排除する。そして再び監獄へ送り返される。

もはや職を見つけることもできず、いかなる生計をたてる手段ももたず、家族を立て直すこともできない、ということを考えると、監獄を出た人々、監獄のせいで死ぬ人々―時には直接的に、そしてほとんどいつも間接的に―、監獄は、これらの人々の物理的な排除を行っています。そして一つの監獄から別の監獄へ、一つの犯罪から別の犯罪へと渡りゆくことを重ねていくうちに、最後には、彼らは本当に物理的に排除されてしまうことになるのです  10。

 監獄は、排除のプロセスの道具の一つなのである。そこでその循環に取り込まれた人々をフーコーは「非行者」と呼ぶ  11。監獄により必然的に非行を繰り返していくことを強制される「危険」な人たちが作り出されていくのだ。

□非行者と社会
 この「非行者と社会」と次の「治安契約」の項では、社会と一般の人々がどのように「非行者」、「危険人物」と関わっているのか、そして彼らに対する反応はどのようなものであるのかを見ていきたい。
 端的にいうと、社会の支配者層は一般の真面目に働いている人々(以下、一般の人々)と、非行者や職に付いていない人、ニートや不良といわれるような人々(以下、非行者たち)との間に明確な線引きし、対立させるのである  12。一般の人々の目に、非行者たちの姿を、周縁的、危険、反道徳的で、社会全体にとっての脅威、民衆の残滓、屑、いわゆる「賊」として映るようにする。そのために支配者層にとっては、刑罰の法体系を通じ、監獄を通じ、さらには新聞や「文学」をつうじて、「普遍的」とされた道徳を一般の人々に課すことが主要な目的となる。真面目に働くこと、所帯をもつこと、社会のルールは守ること、などである。こうした道徳を身につけた一般の人々にとって、非行者たちが敵対的に浮かび上がるのは必然なのである。
 一般の人々は、何としてでも非行者たちのようにはなりたくないと思うようになる。そして身を酷使して働くのである。現在の日本の雇用形態を例としてみてみたい。正社員は何とか手に入れた地位を守ろうと、必死になって業務に従事する。契約社員は、正社員に昇格するために寝る間も惜しんで働く。そしてもし正社員になれたとしても、それを手放さないために身を削って働くのは同じである。支配者層にとっては最大の利益が上がるような仕組みが成り立っているのである。(非正規雇用の人たちと非行者たちとではいささかニュアンスが異なるのもあるが、道徳的に肩身を狭い役割を負わされている点を考慮すれば、あながち無理な例ではないと思われる。)
一般の人々と、非行者たちは明確に分断され、その対立が利用されていくのだ。

□治安契約
 ここでは国家と住民との関係を提示することで、危険への反応がいかになされるのかをみていきたい。かつては、国家と住民との関係は領土契約といわれるものであった。それは国境の保障が国家の大きな役割であり、住民への領土の提供や国境の内側での平和な暮らしを約束した。そして国境問題がほとんど生じることがない現在では、それは治安契約といったものに変わる。不安や偶発事、損害、危険になるかもしれない一切のことに対する保証が、国家から提供されようとする。このような治安を保証する国家は、「心遣い」という形で住民の日常生活を脅かすものに介入していく。それは例外的で超-合法的な性格を持つ介入なのである。

「私たちがどれほど君たちを庇護する心づもりができているかをご覧なさい。何か異常なことが起きたらすぐに、もちろん法律や判例といった古びた慣習のことなど考慮せず、私たちは必要とされるあらゆる手段を使って介入してあげます。」13

 現在展開しているのはこのような権力の形態であり、こうした心遣いにおいて国家がその本性を表すのである 14。この庇護と保証を受けることとの引き換えに、人々は国家に賛同し、税金、階層秩序、服従などを受け入れる。
 治安契約をもとに人々は国家に危険をなくすことを求める。たとえ心遣いとしての国家の介入が、危険、秩序を乱すという理由で、ある人たちを抹消する、あるいは死に晒すものであるとしても。「あの人は危険です。」「あそこにいるのは危ない人たちです。」「早く監獄へ入れてしまってください、そこからもう出さないでください。」「死刑にしてください、抹消してください、でなければ私たちの生が危険に晒されてしまいます。」「安全な社会を保証してください…。」

□新たな人種主義
 危険人物、非行者に対する人々の反応がどのようなものであるのかを、上の二つの項で提示した。国家の権力行使は、単に「上から」行われているのではない。人々の要請にしたがって、人々にそれを要請させるようにして行使されるのである。ここではその後ろ盾としての「人種主義」をみていくことで、刑罰システムと排除の機構についての本稿のまとめとしたい15。
 現在では、人口や個々人の生を支配・統御するような生権力を中心とした政治システムが機能している。かつてのように君主が自由気ままに殺す権利を行使できる時代にはないのである。このような政治システムの中では、いかにして死の権力の行使が可能となるだろうか。
 ここで人種主義の介入が行われるのである。いかなる国家も、死の権力の行使を少しでも含んだその近代的機能のうちには、人種主義を経由せざるをえないのである。では、その人種主義とは一体どのようなものなのであろうか。

それはまず、権力が引き受けた生命の領域を、切り分けていく方法なのです。生きるべきものと、死ぬべきものが分けられていく。人間という種の生物学的連続体の中で、人種の発生、人種間の区別、人種間の序列が生み出される。ある人種は善いとみなされ、それとは反対に、ある別の人種は劣ったものとして規定される。こういうふうにして、権力の引き受けた生物学的な領域が断片化されていくことになるでしょう 16。

 これは昔から存在するような肌や目の色の違いを持ち出すような人種主義とは異なる。国家が近代的機能の行使のための、生権力の行使のための、社会の統治を支える酸素のようなものとしての人種主義なのだ。生命の領域、人間という生物学的な統一体の間に明確な線引きがなされる。その区別にしたがって人間種は互いに異なる人種として分離される。善いとされる人種は生きることができ、劣等種は殺される、あるいは死ぬがままにされる。
 これまでの展開を振り返ってみる。精神医学によって宣告される「危険性」(危険人物の誕生)や、監獄での淘汰による「非行者」の誕生(監獄、排除)。劣った人種が生産されていく社会システムが機能しているのは明らかである。人々は劣った人種を蔑視し、敵対させられていく(非行者と社会)。そして善い人種は国家と治安契約を結び、危険で劣った人種を国家に抹消してもらうのだ(治安契約)。

 国際社会の潮流に反して日本は死刑制度を手放そうとせず、執行を続ける。たしかに、痛ましいニュースを聞く度に憤りを覚え、社会の安全を切に望むのが人情であるのは理解できる。だが今一度、治安とは何か、刑罰とは何かを問い直してみる必要があるのではないか。これは「危ない」人たちを徹底的に抹消することで解決される問題ではないと思う。

いかなる公的権力も(またそもそもいかなる個人も)誰かの命を奪う権利はないという原則を据えて、死刑を廃止すること。そうしてはじめて困難かつ重要である議論の核心に触れることができる 17。


□今後の課題
 ニート、ホームレス、外国人差別 18…人種の分離は現在の日本においても当てはまる節は少なくない。(フリーター、若者を、夢を追う不良債権と描写するなどして分析する山田は、代表的人種分断論者の一人である 19。)また「発達障害」という概念の普及にも注意したい。学校や社会とうまくやっていくのが難しい人たちへの配慮が、あるとき排除の指標として用いられ出していく可能性はゼロではない。(社会がものすごく不況になった時、誰もが自分の生存で精一杯になったとき…。)そしてこれからの日本社会は徴兵制を取らなくても、ニートと名指されうまく職に就けなかった人たちと、自衛隊の採用人数の上昇がうまく合致していくだろう。間接的に死なせる権力がはたらく。
 「統治性」のテーマをはじめ、フーコーから社会を分析する可能性には多くの研究者たちが着目している 20。今回の発表だけでも刑法学、犯罪学、心理学、精神医学等に広く関連する。そして後期のフーコーが取り上げている「主体」の問題は哲学・思想の領域の普遍的テーマであり、また権力論は政治思想、国際関係でも通用する。学部時代はフーコーに徹したい。フーコーを学ぶことで、現代社会を遍く論ぜられる人間になりたい。

 この研究は修士課程の2〜3年では短く、それ以降も課題となり続けることになると考えている。
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by kokem-omo | 2007-10-26 10:27  

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