故郷からの移民を想う(続)

「日系コミュニティはもう内輪の集まりのためだけではない。日本の顔として、外へと活動していくのがこれからの大切な役割。」

お話いただいたのはBC州和歌山県人会会長の林栄造さん。1971年にガーデナーとして単身バンクーバーに渡る。そして本業に従事するだけでなく、県人会の発展に尽力してきた。和歌山県東牟婁郡本宮町(現田辺市本宮町)出身の林さんは、66年に和歌山県農業センター(現農業大学校)を卒業、67年からの二年間、米国のアリゾナ州で農業を学ぶための留学経験を持つ。

米国の農業は当時においても、和歌山と同じミカンを栽培するとしてもまったく異なった形態を持っていた。省庁や地方自治体、その下に農協と農家というようなシステムではなく、経営としての農業。投資を募り、経営者を雇い、労働者が農場で賃労働を営む。このような企業活動がモデルとなる農業のあり方を話しても、40年前の和歌山ではほとんど理解されなかったという。

さて、ここでお決まりの移住してからの苦労話を載せたかったところだが、林さんは渡航してから海外生活の苦労をほとんど感じなかったという。仕事の契約も問題なく結ぶことができ、銀行からも差別なく取引を受けられる。米州での暮らしは、和歌山での役所仕事、価値観の閉塞性に比べ、リベラルで進歩的な林さんにはよっぽど気が楽なものであった。

大切なのは、日本人コミュニティの外へ、積極的にカナダ人社会に飛び込み、契約を結んでくること。仕事ができれば認められていく。ガーデナーとしての仕事も、労働時間と力仕事が収入に比例する昔の漁業や林業での働き方とは違った「ビジネス」であることを林さんは肌で理解していた。

そんな林さんの価値観は、県人会での活動の中でも広く発揮される。県人会の前身であった三尾村人会の時代は、孤独な異国の地で暮らす人々の冠婚葬祭から日常生活での支え合いという、まさに共同体としての役割が強かった。しかし交通・通信技術の発展により海外はより身近なものになり、組織の共同体としての役割は薄れ、存在意義も弱まっていった。
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それでも和歌山、日本とバンクーバーの橋渡しとしての大切さは衰えることがない。日本側から見ると県や政府から要人が訪れたときのもてなしや、バンクーバーの紹介などの橋渡しとしての役割、またカナダ側から見ると日本へ、日本文化への窓口としての役割。2000年から始まったスティーブストンのゲーリーポイントパークでの桜の植樹も約200本に及び、花見の名所としてが広く知られるほどになった。太平洋を隔てた異国で花見を楽しめるとは何ともおつなものだが、これは日本人を楽しませるだけではなく、カナダの人達が本物の日本文化を楽しむ大切な機会にもなっている。

こうした林さんのご活動から思い出したのは、外国人労働者が多く住む掛川での夏祭り。大企業の工場の祭りでは、そこで働く外国人たちだけでなく地域の人達も参加し、一体となって賑わっていた。日本でもカナダでも、国際化の進展と通信技術の進展がコミュニティの在り方を変え、新しい交流の可能性を生む。こうした交流が積み重なり、外交の中心になり、世界が繋がっていくことを願うばかりである。
                                    (バンクーバー 山中翔大郎)
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by kokem-omo | 2009-09-25 14:37  

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