階層と交際

「若い海軍士官と若い下士官と若い水兵とが、街のそれぞれの階級の未婚の少女たちの空想上の良人になった。たとえば、良家の女学生は士官にあこがれ、看護婦は下士官に、女中は水兵にあこがれると謂った調子だ。軍隊の階級意識が女たちの心に落としたこの投影は、やがて、街の秩序に軍隊式階級制度をやんわりと守り立てる手ごろで確実な地盤になった。」
                            (三島由紀夫『青の時代』新潮文庫)

 時代こそ違われ、たいへん示唆的な文章であると思われる。現代では階級はもはや消滅し、消費者だけが存在するといわれる。だが当時と異なり露骨ではなく流動的ではあれ、その消費の選択、文化の受容により緩やかに階級ではなく「階層」らしきものが存在しているように思われる。
 ギャルはギャル男と、原宿やクラブでくっつく。大学生は女子大生と、サークルで。OLと会社員が職場で。確かにOLが医師たちと合コンなど、かなり流動的なパターンも考えられるが、かなり限定したものになるのではないか。共通の話題や共通の経験の強弱により交際が限定されることが往々にあると思うからだ。
 真っ黒なギャルは文学青年をイモくさい、ださいと言ってはしゃぎとおして一蹴する。青年は薄っぺらい、ばかだと言って見向きもしない。
 こうして一見平等な社会構成も、文化の受容や、経験、それに基づく嗜好により極めて薄く見えない形で階層化される。階級はない。だが互いに軽蔑しあったり、差異化によりアイデンティティを確立することで分断が生じているのである。”you are what you buy”という広告が駅にある。消費により、自らを形作る。自分にあった階層に自ら属することを消費により選ぶ。
 互いの軽蔑は優劣を生み出さないので、もはやプロレタリアートは誕生しない。そこに社会的地位の差や経済的格差が存在しているとしても、である。見えない形の分断。気づかれない形の階層化。今日も、社会は円滑に機能している。

 こんな秩序、撹乱してやる。ギャルとも、OLとも、看護師とも、女中とも、対話し共通の地平を生み出す。縦横無尽に、育む。
たとえ「田舎くさい」と言われても、僕はめげない。
「そう、まずは僕が田舎くさいとしよう。それにしても綺麗な肌だね」
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# by kokem-omo | 2007-06-05 00:08  

記憶

「重要な哲学や思想のほとんどは、学ぶだけでは足りていない。むしろそれらは忘れることによってはじめて身に付く。忘れることによって、はじめて記憶に落ち、組織化のための素材となる。」
              河本英夫「発達のリセット」『現代思想35-6』(青土社2007年)57頁

たいへん心強いお言葉です。今となればアルチュセールやチクセントミハイ、鷲田清一が何を言ったか詳しくは思い出せない。
でもそう言われれば、事あるたびに、マルクスに対する信奉への注意や、社会において自分で選択しているつもりでも実際は思い込んでいるだけでそうできていないこと、社会成員全員がいきいきとした職に付くことが難しいこと、チラリズムや秘密にそそられること等、僕自身が形作られているのは振り返ってみると確かにそうです。

忘れるのを恐れて学ぶことに躊躇したのがうそみたく思います。
すべては血肉となり、僕を形作るのです。
そう考えると、優先順位はあるにしてもさまざまなことにチャレンジし、学び、生きること、すべては無駄ではないとの一般論をすんなり受け入れられるようになりました。
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# by kokem-omo | 2007-06-02 00:02  

失業率、女性、移民

「失業率の上昇は、女性の労働市場への進出がいちじるしいこととも関連している。女性の労働力率は1975年以降大きく上昇しているが、これを反映して失業者も増加している。女性労働力の増加に加え、失業率上昇にはさらに男性中高年層の失業の影響も見逃せないものがある。男性中高年層の失業者の増加は、人口の高齢化に加え技術革新によるOA化やFA化の波に中高年層が必ずしも適応できないこと、就業機会をめぐって男性の中高年の労働力が女性労働力と競合関係にあることなどからきていると考えられる。」
                           (古都鞆子1998『働くことの経済学』有斐閣)
失業率の上昇に女性の社会進出が貢献している。このように書くだけでも非常に恐れ多い。誰が女性を非難できようか。
これはなぜ国家にアイデンティティを抱くことは良くないのかということに関連するのではないか。
もし愛国心を強く持てば、他国からの労働者の増加による自国民の失業は、許容できない事実として捉えられるに違いない。自国民をまず保護すべきだ、となる。
なぜここで他国からの労働者を非難できるのか。

男性の失業率を改善するために女性の就業を非難できるのか。
自国民の失業率を改善するために他国民の就業を非難できるのか。

自国民はクーラーの効いた部屋でごちそうをたしなみ、他国民は明日、もしくは今日の晩、飢えで死ぬかもしれない。

男性、女性でなく、日本、他国民でなく、人として。
愛国心、ナショナリズムはこの進展に逆行するものだと思う。
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# by kokem-omo | 2007-06-01 00:58  

「菊川怜のいいなり 菊川怜のいいつけ」

        
<目次> 
はじめに
第一章 大学ランキング
第二章 階層秩序化・序列化
第三章 「学歴」以外
第四章 ルサンチマンの克服
結び
 
参考文献



はじめに
 なぜ勉強しなければいけないのか。この疑問は誰もが一度は抱いたものであろう。とくに一心不乱に受験勉強に励んでいるときは切に考えさせられた。今でもその答えはよくわからない気がする。いい高校に行くため。いい大学にいくため。そして、いい会社に入って出世して、えらくなってお金持ちになるため。また、自分の好きなことを将来の仕事にするため。そういう風にはよく言われる。
 高校三年の大学受験に際しては、有名大学を目指す理由は、ただ単にいい大学に行くため、だけでなくもう少し複雑になった。いい会社に勤めるため、希望の職種に就くためという理由は残るとして、設備が充実しているため、学習環境がいいため、仲間に恵まれ切磋琢磨できる環境で学問に励むため、教授陣がしっかりしているため、その他にもいろいろ聞き、考えた。しかしそれだけのために、恍惚な青春の一時期を奉げるのは何か釈然としなかった。
 そうゆうふうに疑問を感じつつも、何とかゆんわり生き続け、今に至るわけだが、よくわからない。今はよくわからなくてもいいし、それについて考えなくてもきちんとやっていける。しかし疑問は残り続ける。そして自分の子供、今度高校になる従姉妹に、どうゆう風に言ってあげればいいかわからない。今回は受験勉強、学歴社会への疑問に焦点を当て、背景にある社会システム、そしてこれからもそうゆう社会の中で「生きる」ということについて、今まで考え、そしてわかってきたことをまとめてみた。


第一章 大学ランキング
ここでは大学を選ぶ際にその理由となった、設備や環境、社会的認知度、その他志望校の決定の際に重要と思われるいくつかの要素を抜粋した。文型を志望する生徒にとって重要と思われるものを選択したのであるが、そのランキングは以下のとおりである。


学生の満足度
国際基督大 津田塾大 同志社女子大  東京外国語大筑波大

教員一人当たりの学生数
札幌医科大、藤田保健衛生大4.4人 岩手医科大4.7人 昭和大4.8人 東京大4.5人

企業が選ぶ役に立つ大学
早稲田大 慶応義塾大 一橋大同志社大京都大

国家Ⅰ種合格者(行政・法律・経済)
東京大243人 早稲田大95人 慶応義塾大76人 京都大71人 一橋大32人

外務省Ⅰ種合格者
東京大18人 早稲田大3人 京都大、慶応義塾大2人

公認会計士
慶応義塾大208人 早稲田大153人 東京大93人 中央大76人 神戸大62人

高校からの評価
東北大 立命館大 京都大 慶応義塾大 東京大

大学図書館
北海道大天理大 一橋大 国際基督教大 京都大

国会議員の出身大学
東京大152人 早稲田大94人 慶応義塾大69人 中央大41人 京都大39人

著名なOB・OG
東京大25,129人 早稲田大15,023人 京都大11,830人 慶応義塾大9,694人 日本大5,880人
                  
                        朝日新聞社『大学ランキング2006年度版』より


このように、設備や社会的認知度の違いは大学によって大きく差がある。東京学芸大学などが上位に位置することはない。だが「勉強をする」という点ではほとんどこんなことは問題にならないと思う。僕たちは努力すればこんなランキングなど優に乗り越えられるのではないか。自分の頑張り次第では大学名など関係なく、何とかなることが多いのではないか。
 だが何か悔しい。このままでは何かがだめなような気がする。僕たち、ランキングにものらない学芸生の存在などは忘れ去られ、そして小さく萎んで消えていってしまうのではないか。それぞれの大学の学生の間には、「学歴」というものの間には、決して埋めることのできないような差異、序列、溝、そのような「何か」が存在するのではないだろうか。


第二章 階層秩序化・序列化
フーコー は、その主著のひとつである『監獄の誕生』の中で、刑罰が残酷さを無くし、人道的になっていく一方で、社会がより円滑に機能していくために、規律・訓練によって人間が社会に対してどのように従順化していくのかをあらわしている。監獄や軍隊、学校での諸規則や機能が取り上げられ述べられているのだが、その一つが、ここでみていくことになる「恩恵=制裁」「懲罰・褒章」の体系である。

 「教師は可能なかぎり懲罰の行使を回避すべきである。反対に、罰を加えるよりもいっそう多くの褒章を出すように努めるべきである、たとえば怠け者は、懲罰の心配によってよりも、勤勉な者に劣らず褒章をもらいたい気持ちによって一段と激励されるからである。」
 罰を恐れながら行動するよりも褒章に向かって前向きに行動する。その方が強い動機付けが得られ、いきいきと進んでいけることは僕たちも経験からよく理解できる。そうして児童の心を引き寄せることで可能になる操作の一つとして、数値による成績評価がある。善と悪の二つの極を設定することで、あらゆる行為は良い評点と悪い評点、良い点数と悪い点数に換算される。そしてその行動、振る舞いに基づいた数値が与えられることにより一人ひとりは数量化され、成績の良い者と悪い者とが比較されていく中で階層秩序化される。
小学校においてはその振る舞いが通信簿に直結することが多かったので、行為が直接数値に換算されるということは明快である。例えば、挨拶のできる子は「元気いっぱいに挨拶ができる」の欄に二重丸がされる。そしてこれは中学の成績や高校の成績、そして模試の成績やその結果である学歴にも同じことがいえる。テスト前に、受験の前にどれだけ机に向かったか、どれだけ自己を社会における試験という制度に従順化させたかという面で、「勉強する」という行動、振る舞いがそのまま点数として数値化されているのである。

 「常設的な刑罰制度にふくまれるこの微視的な経済策をとおして、ある差異が付与されるのだが、それは行為そのものについてのではなくて、個人自身についての、その性質についての、その潜在能力についての、その水準や価値についての、差異付与である。規律・訓練は、正確に行為へ制裁を加えることによって《実際には》個々人を評価するのであり、規律・訓練が実施する刑罰制度は、個々人についての認識の円環のなかに統合されるのである。」
 そして学校において常に存在するこの恩恵=制裁という刑罰制度の課程で、一人ひとりにまで適用される方策により、個人は数量化され、階層秩序化されるのである。ここで最も重要なのは、その差異付与、つまり数量化による階層秩序化が、点数や成績だけでなく、その個人自身に対して行われるということである。「僕が得た成績」や、「僕が入った大学」に対しての、階層秩序化ではないのである。その成績や学歴は、僕自身についての、僕の潜在能力についての、僕の水準や価値についての階層秩序化なのである。そうして僕は社会から評価され、認識の円環に統合される、すなわち僕は社会から格付けを与えられるのである。
 僕の受験勉強の成果が東京学芸大学なのではない。僕の潜在能力や、水準や価値が東京学芸大学なのである。東京大学の学生は、その性質、潜在能力、水準・価値が東京大学相応のものとしてみなされる。個々人はそのように社会的に確固として格付けされている。油性ペンで額に大学名を刻んで街を歩いているようなものなのである。

 さらにフーコーは階層秩序化・序列化のもつ興味深い効果について述べている。
「規律・訓練は、序列や地位を入手可能にさせつつ、昇進・進級のはたらきだけでもって人に褒章をさずける一方、序列の後退や地位の剥奪でもって処罰する。序列はそれじたいが褒章もしくは処罰にひとしいわけである。」
 この説明には軍官学校の例が挙げられている。軍官学校では名誉に沿った分類体系が存在し、それが序列と結び付けられている。その配分は年齢や位階を考慮せず、専らその品性や素行によって行われる。優秀生の隊には特別な肩章、そして軍人らしさを意味する逮捕の特権を与えられる。さらにまた営倉も優秀生と普通生では区別される。そして不良な者のクラスには、茶色の肩章や囚人の服が与えられるという恥辱を示す差異が与えられる。
 これらは軍官学校という特殊な場所において、明らかな差異化を目的に作られた制度である。だが、僕たちの社会もその分類体系こそさまざまではあるが、同様の仕組みをもっているのではないだろうか。例えば高校生は制服の違いにより、上位校かそうでないかが一目でわかるようになっている。大学においてはそのような明確な区別はないにしても、有名大学の学生が羨望の眼差しで見られたり、異性に注目されたりするという点では、褒章にあやかっているということができる。さらにここでは、その状態、自分が上位にあり、人より優位にあるという事実自体が褒章なのであり、人より下位にある、劣っている、ということ自体が処罰なのである。誰もが人より優位に立ちたく、そして輝いていたいのではないだろうか。有名大学への進学はそれ自体が褒章であり、快さが伴うものなのである。成績の悪いことや三流大学にいること自体が気分の良いものではなく、その不快さは処罰を受けている状態とも表現することができる。
そしてこのような褒章・処罰の制度の最も効果的な面は、同一モデルに従うように、全員に常時圧迫を加えられることである。序列の後退は処罰を意味する。少しでも気を抜いたり、疑問を投げかけたりしている間に他と人たちと比べて序列は後退し、卑屈を味わう。快く生きるためには、常に上方を志向し、努力を続けなければならない。その事実に気がつかなければ、一年次に授業をサボって坂本竜馬を読んでいる間に、GPAは低下し、留学が難しくなり、奨学金や進学に不安を抱くようになり、大学生活においてもなまなましく処罰を感じる結果となる。

「規律・訓練的な施設のすべての地点をつらぬき、それの一刻一刻を取締る常設的な刑罰制度は、比較し差異化し階層秩序化し同質化し排除する。要するに規格化するのだ。」
 僕たちは、社会に存在している時点で階層秩序化・序列化の歯車に組み込まれており、規格化されているのである。東京学芸大学の何某、GPAは何々。悔しさを味わうことなく、快く生きるためには、序列において人より優位に立っていなければならない。このような規格化からは決して逃れることはできない。
なぜ勉強しなくてはいけないのだろう、なぜ有名大学に行かなければならないのだろう。常時圧迫を加えるシステムのもとで、そう考えている間にも序列化は進行し、取り残され、処罰される。
「学歴」はそれじたいが褒章もしくは処罰にひとしいわけである。
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# by kokem-omo | 2007-05-31 07:06  

「菊川怜のいいなり 菊川怜のいいつけ」(続き)

第三章 「学歴」以外
ここまででは「学校名」、「学歴」が人生、人間に決定的な作用を及ぼすことを示した。東京学芸大学の学生として生き、これからも過ごし、そして死んでいく。決してそこに刻み込まれた階層秩序化・序列化からは免れないのである。満足に生きていける人もいれば、そうでない人もいると思う。だがいずれにしても人より優位に立ち、階層秩序化・序列化の中で上位に位置していかなければ悔しさを味わい、卑屈をかみしめることになる。このような事実を前に、いったい僕たちはどのように「自分」や「人生」というものを考え、生きていくべきかをこの章では考察していきたい。

 僕はイチローを見下す。彼は勉強ができないからだ。というより、やろうとしない。英語では負ける可能性が大きいが、漢字では勝てると思う。彼はきっと書き順を間違う。そしてそれでも笑顔で書きとおすだろう。幸せなやつだ。だがそんなことで見下してもどうにもならない。彼は野球というフィールドで、だれもが知っているようにはるかに突出している。彼を高卒だといって、最終学歴が愛工大名電高校といって鼻であしらう人はいないだろう。
成績や、大学や、会社名だけで人間決まるのではないのである。スポーツや芸術、その他にも様々な分野で、努力して、生み出し、魅せ、そして認められている人たちがたくさんいる。社会による淘汰・選別を絶対視し、諦め、途方にくれることはないのだ。僕たちが頑張り、輝けるフィールドは、学歴や就職だけでなくまだまだたくさんあるのである。

だがここで考えなくてはいけない。これは単に競争、序列化の賞罰のフィールドが成績、そしてそれに基づく大学や就職先などの帰属団体から、スポーツや他の領域へ変わっただけに過ぎない。それぞれのフィールドでも序列が存在し、認められ自信に満ち溢れ誇り高く生きられるものもあれば、当然、うまくいかず、卑屈になるものも生じてくる。大学名と同様、メジャーリーグ、マイナーリーグ、一軍、二軍と、野球の世界においても序列は確実に存在する。どのフィールドにおいても存在する序列化、そしてその中で助長される上位を志向する傾向、競争心。この力強い連関が社会的競争や選別、淘汰、そして抑圧・卑屈を産み続けていくのである。

だがそこまで悲観しなくてもいいのではないか。たとえ社会のシステム、文化が絶えず競争を促し、序列化を促進するものであっても、自分は自分で、そのような競争には加わらず、そのようなフィールドで上位にいなくても、自分らしく生きていく道がきっと残されているはずである。
「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」
これは「世界に一つだけの花」という、SMAPのとても優しい唄である。一番なんかにならなくても、一番を目指して頑張らなくても、君という存在はそれだけで十分素晴らしい。東京学芸大学で、GPAが低くても、高校時代に格闘技をしていて、少し鉄道マニアで、途上国も自由に旅することができるのは君だけしかいない。それだけいろいろできるのは君しかいない。そんな君は一人しかいないという意味で、「個性」を賞賛するものである。まさしく「自分らしさ」を肯定してくれるもので、槇原敬之は社会のやすらぎのためにとてもいい言説を残したといえる。

しかし20歳そこらの、熱く血の煮えたぎる僕たちはこんな歌詞に惑わされてはいけない。こんなやつらに騙されてはいけない。個性の賞賛とは、他との差異を賞賛することを意味する。東京学芸大学でも、格闘技や、駅名が人より言えることや、一人旅ができるという様々なフィールドにいることで人との差異は明確になる。しかしそれはその一人しかいないフィールドでは必然的に一番となり、その一番を賞賛することを意味している。つまり、一番になること、階層の上位を志向することにはなんら変わりないのである。一番になりたい、人よりすごくなりたいという欲望は何ら解決されていない。大学は一流のほうがいい。インターハイではできるだけ勝てるのがよかった。東京から大阪までの駅名を誰よりもサラッと言いたい。パスポートを誰よりもスタンプだらけにしたい。「個性」のレトリックに安心してはいけない。僕たちは決して「競争」の歯車から逃れることはできないのである。

「社会的アイデンティティは社会的カテゴリーと結びついている(同一化=社会的役割の取得)が、優位のカテゴリーに属する者は、アイデンティティの証明を迫られることがない。劣位のカテゴリーに属するものだけが、存在証明の強迫のもとにおかれる。」
有名大学の学生、一流企業の社員、著名なスポーツ選手は、アイデンティティとは何か、自らは何者かと考えさせられることは極めて稀であると思う。「個性的になること」など意識しなくても、その役割で十分に強く自信を持っていきいきと過ごしていける。何の疑問もなく気持ちよく社会や組織の論理、支配的な概念を受け入れ、その施行や普及に従事できる。個性的になることを意識させられ、「自分らしさ」という言葉が流行るのは、学歴、収入、またそれぞれのフィールドにおいて上位になることができず、そのままの自己を容認することが不快と感じられる人たちが数多く存在するからではないのか。成績が芳しくなく、受験・就活に失敗し、悔しさや卑屈を感じて初めて自己や社会について疑問を抱き、考えさせられるのである。いじめるものは、決していじめられる人の気持ちがわからないのと同じように。

だがしかし、大部分の人たちはここでその疑問を社会の方に向けることはしないであろう。自分が悪いのに、自分が頑張っていないのに、他のもののせいにして何なんだこいつは、となるだけである。なぜならば教育システムは常に淘汰・選別の過程において、社会における序列化や再生産に合理性を持たせるために、その結果を主体の能力に帰結させるようにはたらいてきたから。ある学校に通い、ある会社に勤めることが、ふるいにかけられ、選別された結果だとは気づかせられない。ただ単に、残念ながら君は勉強ができなかったのだよ、それが君の能力なんだよ、と思い込まされるだけなのである。
「学校では、教育という『よびかけ』を通じて、子供たちと未来の労働者または未来の管理者に割り振り、社会構造の上下の担い手を作る。学校ではすでに子供の社会階級への分配を実行しており、そして同時に階級分断線を消去するような形で『市民』という主体をも生産している。」
確かに、教育システムが淘汰、選別の役割を持つことは仕方がない。そうでないと、分業で成り立っている社会が運営されない。だが、ここで取り上げるのは、これは大学入学までの教育課程によって存在した、社会階級への分配や、その階級の分断だけを問題にしているのではないからである。重要なのは、今、この瞬間も、僕たち自身がその選別・淘汰にかけられ、そしてそれは輝き続けて生きていくか、濁って卑屈を抱え込むかを大きく左右しているという事実である。
 蔓延する抑圧や卑屈には「個性」や「自分らしさ」という精神安定剤が与えられる。それらの苦痛、病理の原因である教育システムは、緑色で「安全」と書かれた、なまぬるく重たいヘルメットを与えてくれる。

 学歴や会社名だけでなく、スポーツやその他の文化の領域においても序列化、階層秩序化は存在し、その分卑屈や抑圧が存在する。一見そのような社会とはまったく別のところに連れて行ってくれそうな、「個性」や「自分らしさ」という言説も、結局は序列化やそれに伴う苦しみの存在を雑に消しこもうとしただけにすぎない。
 恋愛や家庭も同じようにとらえられる。それは悦びであり、安心であり、幸福であるのだが、それでも社会の歯車からは逃れられていない。自分の夢を叶えられず、序列化の中で満足できない位置にとどまっている人たちは、いくら最高の恋人、美人な奥さんや、優しい夫を持とうとも、一歩玄関の外へ出れば暗い毎日が始まる。確かに恋愛がすべてではないし、社会の中で満足な位置にいることがすべてでもない。ここで表したいのは、恋愛や結婚があたかも非常に重大な役割を果たすかのような言説に満ちている社会では、恋愛や結婚が序列化・階層秩序化に満足できなかった人たちに安らぎを与えているということである。そして同時に序列化・階層秩序化の中で突出することに熱く生きる人びとに、諦めへの切符を与えているということである。
そしてその家族をもつこと、結婚し、夫、妻を愛することそれ自体も社会システムの機能の一部だといえるのである。僕たちの異性に対する関心、それとは完全に分離できるとは考えることのできない性的欲望は、恋人、妻、夫を求める作用を示す。その結果、社会の機能を円滑にするための婚姻が、その欲望を満たすための装置として正当性をもつにいたるのである。 そして機能を円滑に作用させたい社会にとっては、婚姻は好ましいものとして賞賛され、適切な時期に結婚しない人たちには「まだ結婚もしないでぶらぶらしているのか」という言説が与えられる。
結婚や恋愛それ自体は非常に素晴らしいことであり、人生を華やかなものにしてくれている。だが、常時序列化の圧迫にかけられており、序列それ自体という賞罰に直面させられている立場からは、結婚が意味するもの、恋愛が意味するものはどうしても明るく見ることができない。そしてそれを社会の機能として捉えると、知らぬうちに進行している配分に甘んじ、そのような社会に屈服するのは果たして望ましいことであろうか、という感情が湧き上がってくる。


第四章 ルサンチマンの克服
社会は絶えず序列化・階層秩序化を生み出す。スポーツ、「個性」、恋愛・家庭、何をしようとも、どう考えようとも、どこに目を向けようとも、そのような社会に属しているかぎり賞罰を意味する序列化からは逃れることはできない。
そして序列化が存在してもそれに絡めとられ、逃れることができないと感じるのは自尊心、向上心、競争心、煩悩というべきか、そのような人間の欲望があるからである。そもそもそのような人間の欲望さえなければ、序列化や競争を生み出す社会など生まれなかったのではないだろうか。自国の権益拡大を求める結果生じる、外交競争の一段階である戦争すら起こらないのではないかと考えてもしまう。現に、キリスト教は隣人愛の思想を説くことで、一切の競争を否定し、平等な世の中の実現を訴えた。仏教は煩悩を一切の苦しみや矛盾の源泉とし、それを消し去れば人間は救われると説いた。向上しようとするから苦しみ、弱者が生まれる。序列化で上位を目指そうとするから、競争に苦しみ、人を貶め、自己中心的な行動がより拡大する。そんな醜い競争からは逃れ、苦しみを生み出す欲望に囚われず、穏やかに、何事をも求めず、利他的に生きるのが最も美しい人生なのではないか。恨まず、妬かず、どんな境地にあっても自己を犠牲にする精神を尊び、すべてを愛し、すべてを許す。そうすれば自分自身を苦しめることもなく、人をも傷つけることなく、生きていけるのではないだろうか。

ニーチェはルサンチマン という言葉でこのような宗教、道徳を一蹴する。ルサンチマンとは、弱者の反感、妬み、恨みのことである。キリスト教の道徳は、その起源をこのルサンチマンの感情に持つ。
この道徳は「善い」という言葉の起源にさかのぼる。一般的に「善」とは、「他人のためを思うこと」や「社会のためになること」をあらわすとされている。そして自分のことしか考えない行動や、自分の利益や欲望を第一とすることが「悪」とされている。だが「善い(Gut)」とはもともと、「高貴さ」を表す概念であった。高貴なものがもつ力、生み出す力、困難を切り抜ける力、それらが「善い」として表現されていたのである。そしてその対概念である「悪い(Schlecht)」とはそのような力を持たないことを示すものであり、これらの概念は利他的な行為や、利己的な行為に対してつけられたものではなかった。
ニーチェは、善悪の評価様式を二つに分ける。「騎士的評価様式」は、高いものや強いものから生じる本来的な「よい」の本質を持つ。それはこれらの力に対しての肯定的、能動的な自己感情を根拠としている。一方、「僧侶的評価様式」は正反対の性質を持ち、「敵(強いもの)は悪い」として否定的評価をはじめに置き、そしてその反対に「弱い者(われわれ)は善い」とする肯定的評価を形作る。強い者から自己を防衛するために、恨み、妬みをもとに生じる善悪の価値評価なのである。つまり、「僧侶的評価様式」とはルサンチマンをその起源に持つ道徳の様式であり、その評価様式の原因はキリスト教にあるのだ。
「『貧しきもの、病めるもの、悩めるものこそ幸いである』。このキリストの教えが意味するのは、『強者や金持や権力者より、弱者や惨めなものの方がじつは善き者、幸せな存在である』という新しい思想にほかならない。ここには明らかに食べられないブドウは酸っぱいと考えるのに似た心理的な顚倒がある。ほんとうは、人間なら誰でも『富』や『力』を求めている。それは人間にとって一般的に『よい』ものである。しかしキリスト教はそれを逆転する。『ほんとうは貧しいこと、悩んでることの方が幸せであるなぜならそういう人間の方が神の国に近いから』、と。」
こうしてルサンチマンから形作られたキリスト教の道徳は、富や権力を求めることを否定する。そうすることで、富や権力を得ることができなかったことで生じる恨みや妬み、そして卑屈をその根底から慰めようとする。その結果、富や権力を志向する源泉となる欲望を悪とするに至り、禁欲主義がその教えの中心となるのである。
「禁欲主義的理想は頽廃しつつある生の防衛本能と窮地本能から発生する」

そしてこれは何もキリスト教の教えの中だけに存在するものではないのである。今まで見てきたとおり、勉強や試験で序列化の上位を占めることができなかったものは、優位な位置にいる者を勉強しかできないとみなしたり、性格が曲がっているとレッテル張りしたりすることで勉強以外の分野、スポーツ等に喜びを見出すことを模索する。勉強やスポーツ、ある特定の分野で優位に立つことができなかったものは、優位に立つこと自体を否定し「個性」や「自分らしさ」という言葉に逃げようとする。恋愛や家庭を持つことにおいても、社会で富や権力を持つことができなかったものは、愛に生き、家庭に傾倒し、子供に未来を託す。このように、現在においても富や権力を得られなかった生の防衛本能や窮地本能から、勉強・学歴ではない他のフィールドに目を向けたり、「個性」を謳ったり、愛に生きたりすることで、社会における富や権力に対して禁欲的な姿勢を取ろうとするのである。

そしてニーチェは禁欲主義的僧職者の行為を興味深い形で描写してみせる。
「彼は傷の痛みを鎮めながら、同時に傷口に毒を塗るのだ―この魔法使い、この猛獣使い、彼はわけてもこのことに熟達しているのだ。彼の傍にいると、すべての健康者は必ず病気になり、すべての病人は必ず温順になる。」
キリスト教の教えは、苦しみを和らげると同時に、ある種の苦しみを永続させるような教えに従うことを説く。自らを高めることなく、その向上心や力強くなりたいという精神を、禁欲主義という不自然な苦しみを塗りつけ浸みこませることで抑え込もうとする。そうすることで自らを高め、輝いていこうとする者を青白い陰鬱へと留め、病んで苦しむものを、自らの不幸と向き合い、前向きに取り組むことを気付かせない形で温かく見守ってあげる。
そしてこれは単にキリスト教だけのことを言っているのだと捉えてはならない。社会に充満する、僕たちをある程度の位置に分配し留まらせようとする言説、分配させられたものに安心を与える言説は、すべての健康者を病気にし、すべての病人を温順にするのである。常時SMAPの唄の安らぎに浸っていたり、美しい恋愛や暖かい家庭に安堵したりすること、それだけを夢見る者になることは、正真正銘の患者になることを意味する。そして富や権力をもたない者たちは、丸くおさまって穏やかな顔つきで山梨にある墓に入る。僕たちが生きるということは、健康でいつづけることではないだろうか。病気になったとしても、回復に全力を注ぐべきなのではないだろうか。

そうするなかで僕たちが注意しなければならないことが一つある。それは、常に今を生き、今を輝き続けることを意識することである。
「―では、奴らにとってこの世のあらゆる苦しみに対する慰めとなるもの、奴らが幻に描いて当てにしている未来の幸福―、それを奴らは何と呼んでいるか。
―どうでしょうか。私の耳に間違いはないでしょうか。奴らはそれを『最後の審判』、自分らの国、すなわち『神の国』の到来と言っています。―しかも奴らは、それまでの間は『信仰に』、『愛に』、『希望に』生きるのです。
―もう沢山だ!もう沢山だ!」
「これらの弱者たち―彼らもまたいつかは強者になりたいと思っているのだ。これは疑う余地のないことだ。いつかは彼らの「国」も来るはずだ。」
確かに未来を考え、未来に向かって進んでいくことは高く生きることそのものである。だがここで示されている「未来の幸福」や、「いつかは」というものは根本的に違う性質をもつものである。「未来を考える」ことは、「未来を信仰する」こととはまったく異なる。すでに上においても説明したように、僕たちは自分の向上心を抑圧することなく、自らを高めることでより充実した生を送り、輝き続けることができるのである。そのために未来において建設的な目標を設定し、夢を持ち、前進していくこととは何も矛盾しない。それは富や権力に対する気持ちを抑圧して生き、いつかの成功を思い浮かべることとはまったく異なる。ここでその一つのわかりやすい例となるテクストを提示しておく。
「製薬会社で五十五歳までつとめて、家庭ではよきパパであった一人のサラリーマンが、定年のパーティーをやって、家へ帰ってきた。いつものように背広を浴衣に着替えて、茶の間でくつろぐ。テレビではヒットパレードをやっている。奥さんがお茶を入れている。と、ふいに彼はガバッと身を伏して泣き出した。『ちがうんだ!ちがうんだ!ほんとの俺はこんなんじゃない……ちがうんだ!』世をしのぶ仮の姿だと思い込んできたサラリーマンの仕事をいつのまにか五十五歳まで続けてしまって、気がついたときには虚像と実像とがいれかわってしまっていた」


結び
フーコーは社会という面から出発し、序列化や階層秩序化の効果を論じたが、そのもとにはやはり社会を生み出した人間の性向があり、それは自らを高めることを求める。ニーチェはその性向を否定することなく、人間を高めることが生を活気に満ちたものとさせ、そこにこそ生きる意味が存在すると言った。賞罰という序列化と、自らの向上。この二つが明るみなった今、僕たちは人生において、妥協し、諦め、留まること、そういうことがどうしてできようか。

スポーツや他の様々な文化、「個性」や「自分らしさ」という言説、恋愛・家庭、宗教、どれも人生において大きな意味を持ち、僕たちが生きることを豊かにしてくれる。だがニーチェがキリスト教の価値観を「ルサンチマン」という言葉で批判し、強いことが善であったことを示したように、誰しもが序列化の中で優位に立ちたい、人より強い立場にいたいという傾向からは決して逃れることができないのである。
その優位に立ちたい気持ち、これを競争心というべきか、自尊心というべきか、この感情が人間の性向であるか、もしくは社会的な産物であるかは今の僕にはわからない。たとえこれが人間の性向であったとしても、社会が変わることで人間は変わっていくと思う。フランス啓蒙思想の思想家たちは、教育などによって人間をよりよく啓蒙し、形作ることができると言った。 マルクスは、共産主義の社会では人間には「社会的な諸器官」と呼ばれる、社会にとってよりよい性質が形成されると言った。 フーコーは人間の本能であるとされている「性的欲望」というは、その社会において都合のいいように作られ、強められ、そして利用されていくと言った。

いずれにしても、20歳そこらの現時点、可能性に満ち溢れ、輝きが渦巻いている時期には、この序列化の中で優位に立ちたい、すごくありたいという性向・感情は顕著だと思う。たとえこの性向が序列化を促進し続け、競争を是とする社会から生じたものであるとしても、現在それに疑問を抱いているとしても、今の自分には変えることもできないし、序列化における罰にかけられることも恐ろしく思う。自分らしくあろうと努めていても、ものすごく美人の恋人がいたとしても、友人が自分よりいい大学や会社に入ったり、所得が高かったりすると、大変悔しいことに変わりない。競争心に捉われ、競争の歯車に巻き込まれ、精一杯生きていくのがいい気がする。

僕たちはそのような社会で生き、毎日過ごしている。いくら学校の勉強なんて意味がないと言い張っても、いくら個性的であろうとしても、社会の多くの価値観は僕たちの中に染み込み、僕たちを構成している。みんなが善いとするものは善いのである。いい大学はいい大学で、いい会社はいい会社で、官僚になることはいいことなのである。院試、就活、出世競争、ポールスミス、カローラ、郊外一戸建て、青梅ライナーで通勤。たとえそれが資本主義システムを容認し、強者と弱者を生み出し、社会的格差の拡大に加担するとしても。僕たちは逃れられない。

夢は追い続けなければならない、ということになっているのだ。


【参考文献】
『大学ランキング2006年度版』(朝日新聞社、2004年)
今村仁司『現代思想の冒険者たち22 アルチュセール 認識論的切断』(講談社、1997年)
上野千鶴子『脱アイデンティティ』(勁草書房、2005年)
桜井哲夫『現代思想の冒険者たち26 フーコー 知と権力』(講談社、1996年)
テリー・イーグルトン『イデオロギーとは何か』大橋洋一訳(平凡社、2004年)
竹田青嗣『ニーチェ入門』(ちくま新書、2006年)
寺山修司『幸福論』(角川文庫、2005年)
ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳(岩波文庫、2006年)
マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳(岩波文庫、2005年)
ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』田村俶訳(新潮社、2006年)
『性の歴史Ⅰ 知への意志』渡辺守章訳(新潮社、1989年)
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# by kokem-omo | 2007-05-31 07:05