〈哲学的エートス〉に関するノート

1.はじめに
 その多くが西洋近代に、あるいは力の保有者にその根を持つと思われる「真理」に対して、私たちはいかなる態度を取ることができるのだろうか。途上国援助・教育開発、紛争における人道主義的介入、「野蛮」とされる切腹や割礼等の各文化に対する批判、無批判な共産主義嫌悪、健康を軸に信仰される禁煙ブーム、捕鯨に対して主張される動物愛護、熱烈な愛国主義。そして同時に、キリスト教、イスラム教、オウム真理教など、異なる宗教の間における共存の可能性に関する問題。
もちろん、これらの問題に対しては簡単にイデオロギーの問題や価値規範の対立に片付けてしまうのではなく、個別的に詳細な考察がなされるべきである。だが、抽象化された形態でその全てに真理の問題が含まれており、現代においてはそれがいつも政治性を帯びて私たちの前に姿を見せる。喫煙を注意するとき、ヒューマニズムを主張するとき、宗教を嫌悪するとき、私たちの行動はこの真理の問題に余すところなく絡め取られている。私たちの行動はそれぞれの真理に依拠して行われる、すなわち、私たちは真理、価値規範に依拠して主体化がなされる。
フランスの思想家、ミシェル・フーコー 1は狂気、知、権力や性をテーマに西洋近代が生み出してきたそれぞれの概念や状態を問題化した。そしてフーコーがその晩年で研究対象としたのは「自らを主体として構成していく」という主体と倫理の問題である。だが、ここで一つの疑問が浮かび上がる。西洋近代の諸概念・諸装置を批判の対象としたフーコーは、いったいどのような立脚点において、その批判や主体化を主張したのだろうか。この問いによって晩年のフーコーにおける倫理の議論を探求することは、異文化理解・多文化共存の概念に代表される真理や価値規範の問題への視座を涵養することを可能にする、と発表者は信じる。
本稿では、その晩年におけるテクスト「啓蒙とは何か」2 を中心に扱う。この後半部では、「〈哲学的エートス〉の性格付け」と称してフーコー自身の研究の方法論とも言える議論が示されている。今回の発表では、この部分の読解によりフーコーの倫理的基盤の理解への手助けとなることを期待する。

2.フーコーによる「啓蒙とは何か」
 さて、はじめに「啓蒙とは何か」で論じられている内容について簡単に触れておく。ここで提示される三つの重要な概念は、啓蒙l’Aufklärung、批判la Critique、現在性la modernitéである。カントのテクスト3 では、啓蒙により人が未成年状態を脱し、正当に理性を行使できるようになる、とされる。そして批判とは、まさにこの理性の行使を条件付け、方向付ける重要な役割を果たすものなのである。また、ここから見られるもう一つの特徴は、カント自身の現在についての反省である。フーコーはここにカントの自分の仕事に対する、今日に対する反省がみられると分析する。こうして浮かび上がる現在性の態度の例として次に挙げられるのがボードレールである。ボードレールには現在の変革を目指す態度が見られ、この態度は自己を芸術的に創り上げることに関係する。そしてこのような態度として分析さるのが〈哲学的エートス〉であり、それは絶え間ない批判の姿勢なのである。以下、このテクストの後半部で示されるこの概念の説明についてみていく。

3.〈哲学的エートス〉について
 この節ではフーコーの倫理的基盤の探求に重要と思われる〈哲学的エートス〉を理解するため、「啓蒙とは何か」の後半部4 を地道に読解していく。ここでは〈哲学的エートス〉の特徴づけと称して、否定的な側面から行われるものと、肯定的なものとに分けて論じられている。

A.否定的になされるものNégativement
(1)
このエートスはまず、〈啓蒙〉における〈恐喝chantage〉と呼んでもいいようなものを拒絶することを意味する 。5

〈啓蒙〉の概念は非常に重要なものなのであるが、ここでは〈啓蒙〉に対して賛成か反対かというような単純で横暴な二者択一を拒否すべきであるということが示しされている。賛成であることは理性主義の伝統に留まることを意味し、反対であることは合理性の諸原理から逃れようとすることを意味する。また同時に、〈啓蒙〉の中の良い点と悪い点を見つけ、その両者の検討によってより善い〈啓蒙〉を導き出すという〈弁証法的な〉ニュアンスを用いることも、そこから逃れることには結びつかない。〈啓蒙〉はこのように使用されるのではなく、重要なのは〈啓蒙〉に関連付けられている私たち自身を、精密な歴史的調査により、分析していくことなのである。

それらの歴史的調査は〈現在における必然的なものの諸境界les limites actuelles du nécessaire〉の方へ、すなわち、自律的な主体としての私たち自身の構成のために不可欠ではないもの、もしくはもはや不可欠ではなくなったものの方へ向けられるべきなのである 。6

この調査は〈啓蒙〉の中に見出される〈本質的な合理性の核noyau essential de rationalité〉を再確認して悦ぶためのようなものであってはならない(回顧的rétrospectivementに歴史的調査がそこへ向けられるということ)。そうではなくて、その周縁に位置づけられる諸物に、状況や時代によって用いられたりそうされなかったりするような恣意的な諸物に、〈啓蒙〉に関するそれらの境界的なものに向けられるような歴史的調査なのである。
 これはフーコーの倫理的基盤を読み取れるような非常に興味深い一文である。ここでフーコーは〈啓蒙〉に関して、合理性の核le noyauを探求し、確認するために歴史的調査を行われるべきではないと明記する。そしてその調査がそうではなくて周縁的なもの、境界les limitesに向けられるべきということは、その中心にある合理性を暗に容認していること、それゆえに改めて歴史的調査の対象としないという立場にいることを意味する。つまり、フーコーは〈恐喝chantage〉による誤解を免れるために敢えて記述するようなことはないのであるが、当たり前のようにして〈啓蒙〉の合理性の核の上に立っているのである。

(2)
この私たち自身に対する(歴史的調査による)絶え間ない批判は、ヒューマニズムl’humanismeと〈啓蒙〉との間の、いつも非常に安易である混迷を避けるべきである 。7

〈啓蒙〉は一つの出来事un événument、もしくは諸々の出来事と複雑な歴史的な過程の総体であり、このテクストで取り上げられ賞賛される、上に述べたような合理性の核そのものの形態である哲学的反省としての形式も、その総体のうちに現れる諸現象のうちの一つに過ぎない。
ヒューマニズムは、そのような〈啓蒙〉とは全く異なるものである。それはヨーロッパの各社会において繰り返し登場した諸々のテーマの総体であり、常に価値判断に結びつき、いつも大きく変化してきた。また、ヒューマニズムの諸テーマは差異化という批判的原理le principe critique de différenciationの役割を果たしてきた。これには宗教一般の批判として、神中心主義的なものへの批判として、科学に対する批判として表れたものなどがある。またマルクス主義や実存主義、個人主義、そして国家社会主義、スターリン主義においてもヒューマニズムが表明されていた。だが、だからといって全てのヒューマニズムに関わるものを拒絶すべきである、などとフーコーは主張しない。

そうではなくて(ヒューマニズム的なすべてのものを拒絶するのではなく)、反省の軸le axe á la réflexionとしての役割を果たすためには、ヒューマニズムのテーマ系はそれ自体、順応的過ぎであり、多様であり過ぎ、そしてあまりにも一貫性をもたないものである 。8

 ここで示されている反省の軸le axe á la réflexionとは、フーコーの倫理的基盤、もしくはそれと密接に関わる批判的視座、研究の立脚点そのもの見ることができる非常に重要な概念である。ヒューマニズムを拒絶するのではなく、自らの立脚点として、不安定なヒューマニズムが軸ではあまりにも頼りないということが示されている。興味深いのは、先に〈啓蒙〉のところにおいて示したような周縁的で境界的なものを対象とするという姿勢が、ここでも明白に表れていることである。
 例として挙げられているのは、ヒューマニズムにおける人間という概念、解放されて自由になるべき人間という概念が、常に宗教、科学、政治から借用されてきたことである。ヒューマニズムは自らの正当性の援用としてこれらを用いてきたのであるが、それこそ問題化すべき「不可欠でないもの、もはや不可欠でなくなったもの」9 の領域なのである 10。精神医学や心理学が人間の内面を描くことで人々を選別する、ということを問題化したこれまでの研究にもこの姿勢は如実に表れている 11。
 それゆえ、ヒューマニズムと〈啓蒙〉の間には混同の中にある同一性une identitéではなく、むしろ緊張関係une tensionがみられるべきなのである。〈啓蒙〉の中心原理である批判の原則により、ヒューマニズムを支える人間の概念を常に問題化し、私たち自身を、人間というものを常に作り変えていかなければならないのだ。

フーコーは、ヒューマニズムの諸々のテーマは危険だがその穢れのない核を探し出せば、そこにこそ我々は反省の軸le axe á la réflexionを置くことができる、などと敢えて記述することはしない。同時に、先に述べたように〈啓蒙〉における〈本質的な合理性の核noyau essential de rationalité〉を声高に叫ぶこともしない。確かに両者を基盤に持つことをここからはきちんと読み取ることができる。だが気をつけなければならないのは、倫理的基盤の探求において、ヒューマニズムと〈啓蒙〉の両者における輝かしい核(共に近代の産物と考えられる)を軸にみること、そうしてフーコーの仕事を素晴らしいものであると結論付けることは、粗雑な道徳的歴史的混迷主義le confusionnisme historique et moralに他ならないのである。フーコーの仕事は単純に倫理的基盤を構築し、その基盤からよりよい個人や社会のあり方の手引きとなるような主体論の提示するものではない、と思われる。その基盤とも読み取れる部分がどこと関連していくのか(方法論か、主体論か等)を慎重に検討しなければ、この試みは何も意味を為さない。

B.肯定的になされるものPositivement
(1)
 内と外との二者択一を逃れなければならず、それはすなわち、諸限界 les frontiéresに居なければならないということである。批判とはまさに境界les limitesの分析であり、境界についての反省なのである 。12

この二者択一とは先に述べた〈啓蒙〉の〈恐喝〉と同じことを指す。賛成か反対かという安易な位置づけを拒否し、そして重要なのは境界に眼を向けることで新しい可能性を積極的に容認していくような実践的批判une critique pratiqueへとつなげることである。
そしてこの批判は、ここから形而上学の体系を練り上げていくことを目的にしない。この批判は次の二つを特徴にもつ。まずは方法において考古学的archéologiqueであることだ。ここでは言説les discoursをはじめとする探求対象を歴史的な出来事les événements histriquesとして扱うことが重要となる。それはあるものの解明のための証拠集めのような探求であってはならず、文脈への強制的な規定をさけて新しい可能性を見出していくようなものでなければならない。そして二つ目は目的性において系譜学的généalogiqueであることだ。これは現在を正当化し権威付けるようなものではなく、境界的なものから現在における在り方の新しい可能性を抽出するような批判であらねばならない。
さて、一つ目はこのように特徴付けられるのであるが、ここで倫理的基盤の探求において見逃すことができない非常に重要な一部分をみていきたい。

普遍的、必然的、義務的なものとして私たちに本来的に与えられているものの中で、特異で、偶然的で、不自然な恣意性des contraintes arbitrairesに負っている部分はどのようなものであるのだろうか 。13


 ここから読み取れるのは、私たちの中に普遍的、必然的、義務的なものを、フーコーがはっきりと認めていることである。ここで重要なのは次の二点ある。まず一つ目は、「私たちに本来的に与えられているものce qui nous est donné」という表現で「私たちnous」と「与えるdonner」を用いている点である。ここで何の限定もなく「私たちnous」を用いていることは、人間全般、地球上の全ての人をその対象としていることを示すものである。そして「与えるdonner」においては、ここでは過去分詞として用いられているのであるが、その過去分詞が形容詞化した形態「与えられたdonné」では「天与の」、「生まれながらの」という意味を持つ 14。「本能」や「人間の本質」という言葉などによって明記することは決してしないが、「全ての人間が生まれながらにして課されているもの」が「ある」ということをフーコーが考えているのが読み取れる。
 そして二つ目は「義務的obligatoire」である。「普遍的universelで必然的nécessaire」ということは「全ての人間が生まれながらにして」という要素に充分に表現されていることがわかるのだが、ここに「義務的obligatoire」なものが加わると、規範的な意味合いが「全ての人々」に課されると解釈されることからは免れ得ない。これは本研究において非常に重要な部分となりうる。もちろんこの部分だけを強調してフーコーを〈啓蒙〉の〈恐喝〉に押し込めることなど意味のないことである。だが、この本来的で「義務的なobligatoire」ものが何であるのか明示されることはないと思うのだが、このような倫理的基盤に近い何かが表れることで政治思想の領域をはじめとする諸々のフーコーをめぐる批判や論争に、何らかの道筋が提示できるのではないかと思われるからだ。

(2)
 この歴史的‐批判的態度cette attitude historico-critiqueはまた、実験的な態度une attitude expérimentaleでもあらなければならないと思われる 。15

これは変化のための態度であり、変化を進んで受け入れる、絶えず変わり続ける態度をもつことを意味する。この態度にはマルクス主義の行く末や国家社会主義(ナチズム)等に対する不信感が表れている。理想の姿を目指した全体的プログラムを信用するよりも、例えその目的が不明瞭であったとしても、周縁的なものから変化・新しいものを導き出す態度、このような私たち自身も常に変わり続けることを要される実験的な態度をフーコーは支持する。だがここで次のような反論が考えられる、とフーコーは記す。


(3)
 つねに部分的で局所的なそのような調査や試みの領域に留まることは、意識もされず制御もされないような恐れがある、より包括的な構造des structures plus généralesによって規定されてしまうという危険を伴わないだろうか 。16

この反論はつまり、明確な目的・方向性を示されない、変化と新しい可能性を見出すための調査が、いつの間にかアナーキスト的な危険を帯びたり、危険な勢力に用いられたりする恐れがあるのではないか、というものである。この問いに対してフーコーは二つの答を提示する。①歴史的限界を構成しているものについての完全で決定的な認識la connaissance compléte et définitiveを得られうる視点に到達することへの希望は断念しなければならない。②この視点からすると、ここで示されているような歴史的調査は限界を持ち限定され常にやり直しrecommencerを求められる。
だがこれは批判のこの作業が無秩序le désordreと偶然性la contingenceにおいて行われる、恣意的なものであることを意味するものではない。この批判の作業が恣意的な判断で勝手に行われるものでないことを表すために、フーコーは以下の四つの特徴が提示される。

①この作業に託されているものSon enjeu
 どのようにして(技術の)諸能力の発展la croissance des capacitésと権力との関係の強化l’intencification des relations de pouvoirを分断すればいいのか 。17

 ここで問題となるのは〈能力と権力との諸関係のパラドックスle paradxe de rapports de la capacité et du pouvoir〉といわれるものである。18世紀には諸技術の発展と諸個人の自由の増大への希望に満ちていた。だが現実には、それらの実現には別の面における権力の強化が付随していった。生産力の増大と諸個人の搾取、医学の進展と諸々の排除、情報技術の進展と監視等、その例は限りなく存在する。

②均質性Homogénéité
 この歴史的批判的分析ces analyses historico-critiquesの均質性はそれゆえ技術的な側面と戦略的な側面とを持つ実践の領域によって確保される 。18

 これは〈実践の総体ensembles pratiques〉の研究に向けられるという点で均質性を保つ。そこには人々の行為の、技術的合理的な様式に規定されているものと、戦略的に揺り動かしていくことが可能なある程度の自由が許されるものの二つの側面がある。

③体系性Systématicité
 ここでその特殊性と絡み合いを分析しなければならない三つの軸が問題となり、それは知の軸、権力の軸、倫理の軸なのである 。19

 私たちの実践的総体はこの体系化された三つの領域から分析される。どのようにして知の主体として、権力を行使し・行使される主体として、道徳的主体として私たちは成立してきたのであるのか。そしてこの領域は互いに複雑に関係しあうのである。

④一般性Généralité
 少なくとも私たちが生まれついた西欧社会les sociétés occidentalesという尺度において、歴史的批判的調査は一般性を持つ 。20

 この調査は個別的な諸実践を対象として取り扱うのであるが、理性と狂気、病と健康、犯罪と法、性的な関係の地位の問題に関する調査は、西欧社会では繰り返し行われてきたという点で一般性を持つのである。

4.結びにかえて
 まず重要なのは倫理的基盤の探求といって粗雑な型に当てはめないことである。立岩は「抵抗の拠点」の探求の試みを馬鹿にしているが、その批判は根拠の問題と権力の偏在性が混合され意味を為していない 21。政治思想に演繹できる部分と、方法論に対する記述を今後明確にする必要がある。政治思想の部分では、関のような討議的民主主義に落とし込める解釈は論理の飛躍が目立つのではないかと思われる 22。方法論の部分では、本稿において読解した部分はハーバーマスからの批判 23に充分答えうるような、論争としてかみ合う様な内容を呈している 24。卒論ではフーコーの整理を、修論では政治思想を、と考える。


【脚注】
1 Michel Foucault(1926-84):コレージュ・ド・フランス教授。主著に『狂気の歴史』、『言葉と物』、『監獄の誕生』等。
2 Foucault, Michel, 《Qu’est-ce que les Lumiéres?》, Dits et écritsⅡ(Paris: Gallimard, 2001) pp.1381-97.〔石田英敬訳「啓蒙とは何か」『ミシェル・フーコー思考集成Ⅹ』(筑摩書房、2002年)3-25頁。〕
以下QLと略し頁数を記し、そのあとに邦訳頁数を記す。
3 Kant, Immanuel, ‘Was ist Aufklärung?’, Immanuel Kants Werke BandⅣ,(Berlin: Bruno Cassirer, 1922).
4 QL.pp.1390-97, 16-25頁。
5 QL.p.1390, 16頁。
6 QL.p.1391, 17頁。
7 ibid.丸括弧は引用者。
8 QL.p.1392, 18頁。丸括弧は引用者。
9 QL.p.1391, 17頁。
10 同性愛者、狂人、女性、未開人、黒人、ハンセン病の患者、メタボ等、人間における政治的境界の変遷において、これは明白にみることができる。
11 《L’évolution de la notion d’’individu dangereux’ dans la psychiatrie légale duⅩⅨe siécle》, Dits et écrits Ⅱ(Paris :Gallimard, 2001),〔上田和彦訳「19世紀司法精神医学における「危険人物」という概念の進展」『ミシェル・フーコー思考集成Ⅶ』(筑摩書房、2000年)〕参照。
12 QL.p.1393, 19頁。
13 ibid.
前半部の原文は“dans ce qui nous est donné comme universel, nécessaire, obligatoire”であり、石田訳では「私たちにとって、普遍的、必然的、義務的な所与として与えられているものの間で(傍点は引用者)」とされる。本稿では基本的に石田と同様にdonnerのニュアンスをはっきりと汲み取り、それを強調する形で「本来的に」という言葉を補った。
14 donné 1 ③天与の、賦与された、生まれながらの;〔哲〕(直観的に)与えられた
(『ロワイヤル仏和中辞典 第二版』(旺文社、2005年)640頁より。)
15 QL.p.1393, 19頁。
16 QL.p.1394, 21頁。
17 QL.p.1395, 22頁。丸括弧は引用者。
18 ibid.
19 QL.p.1395, 22頁。
20 QL.p.1396, 23頁。
21 立岩真也「正しい制度とはどのような制度か?」大澤真幸編『社会学の知33』(新書館、2000年)234頁。
22 関良徳『フーコーの権力論と自由論』(勁草書房、2001年)。
23 Habermas, Jürgen, Der philosophiche Diskurs der Moderne(Frankfurt: Suhrkamp, 1985).〔三島憲一、木原利秋ほか訳『近代の哲学的ディスクルスⅠ・Ⅱ』(岩波書店、1990年)〕
24 杉田敦「啓蒙と批判―カント・フーコー・ハーバーマスについての断章」『法学志林』93巻3号、1996年、野平慎二「啓蒙をめぐるハーバーマスとフーコー―人間形成の潜在的な条件としてのコミュニケーション的関係―」『富山大学教育学部紀要』第58号、2004年、山脇直司「啓蒙理解のゆくえ―フーコーとハーバーマス、社会哲学の変容」『思想』855号(岩波書店、1995年)参照。したがって今後はこれらの再検討も必要となる。
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by Kokem-omo | 2008-06-13 16:51  

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