ミシェル・フーコーにおける立脚点の探究 ―ハーバーマスによる批判から―

■ 論文の構想
序論
第一章ハーバーマスによる批判
 第一節 現在主義
 第二節 相対主義
 第三節 隠れ規範主義
第二章ハーバーマス=フーコー論争―「隠れ規範主義」をめぐって―
 第一節 社会秩序の問題―フレイザーとホネットの視点―
 第二節 道徳規範と倫理―杉田「啓蒙と批判」より―
 第三節 フーコーの課題―ドレイファス・ラビノウ「成熟とは何か」より―
第三章 フーコーにおけるカント
 第一節 人間諸科学批判
 第二節 「近代性」の視点
第四章 フーコーの立ち位置
 第一節 ドゥルーズのフーコー理解
 第二節 フーコーの見解
結論

■ 研究の意義
 フーコーにおいて規範の問題を扱いたい、現代社会における倫理の基礎付けの問題を扱いたいと言っても、その対象は幾つもの層をなすことが次第に明らかになってきた。今回の発表で示すハーバーマスからの批判は、主としてフーコーの系譜学的な方法論による権力分析における問題点を指摘するものであった。だが、政治思想・法哲学の分野ではフーコーの権力論からの社会分析を、社会秩序との関係から限界を指摘した議論が進展しており、また、フーコー研究のなかでは晩年の倫理に関する議論の位置づけをめぐる研究が進んでいる。
本来、このような冒頭では題目の通り「研究の意義」を並び立てるのが適当なのは言うまでもないが、ここではこのような反省ともとれる進行途上の叙述、「あとがき」に適するような錯綜と課題を指し示す形となってしまった。すなわち「立脚点」をめぐる多層な議論の秩序を構成できず、そのため「どの意義への着地が適当か」についても現時点では見当がつかなかった。
■ 参考文献(その一部)
○フーコーの著作
Foucault, Michel, Les mots et les choses: Une archeologie des sciences humaines(Paris: Gallimard, 1966).
〔渡辺一民、佐々木明訳『言葉と物―人文科学の考古学』(新潮社、1974年)〕
Dits et EcritsⅡ(1976-1988) (Paris : Gallimard, 1994).
〔蓮實重彦、渡辺守章監修『ミシェル・フーコー思考集成(Ⅵ-Ⅹ)』(筑摩書房、2000-2002年)〕
“L’herméneutique du sujet” Cours au Collége de France 1981-1982(Paris : Gallimard, 2001).
〔廣瀬浩司、原和之訳『主体の解釈学』(筑摩書房、2004年)〕
○参考文献
Deleuze, Gilles, Foucault, (Paris: Les Editions de Minuit, 1986).
〔宇野邦一訳『フーコー』(河出文庫、2007年)〕
Harbermas, Jürgen, Der philosophiche Diskurs der Moderne(Frankfurt: Suhrkamp, 1985).
〔三島憲一、木原利秋ほか訳『近代の哲学的ディスクルスⅠ・Ⅱ』(岩波書店、1990年)〕
Kant, I., 1784, "Beantwortung der Frage: Was ist Auflarung".
〔篠田英雄訳「啓蒙とは何か」『啓蒙とは何か』(岩波文庫、1997年)〕
Kelly, Michael (ed.), Critique and power: Recasting the Foucault/Habermas Debate (Cambridge: The MIT Press 1994).
関良徳『フーコーの権力論と自由論』(勁草書房、2001年)
蓮實重彦・渡辺守章編『ミシェル・フーコーの世紀』(筑摩書房、1993年)
○参考論文
Habermas,Jürgen,“Mit dem Pfeil ins Herz der Gegenwart Zu Foucaults Vorlesung über Kants Was ist Aufklärung,“ in Die Neue Unübersichtlichkeit (Frankfurt am main: Suhrkamp, 1985).
〔三島憲一訳「現代の心臓に矢を打ち込む」『現代思想』第14巻第10号(青土社、1986年)〕
Hubert L. Dreyfus and Paul Rabinow, Habermas and Foucault on ‘What Is Enlightenment?’ in Foucault: A Critical Reader (Basil Blackwell: 1986).
〔鷲田清一/中垣晃一訳「成熟とは何か?『啓蒙とは何か』をめぐるハーバーマスとフーコー」『現代思想』第15巻第3号(青土社、1987年)〕
杉田敦「啓蒙と批判―カント・フーコー・ハーバーマスについての断章」『法学志林』93巻3号、1996年
野平慎二「啓蒙をめぐるハーバーマスとフーコー―人間形成の潜在的な条件としてのコミュニケーション的関係―」『富山大学教育学部紀要』第58号、2004年
山脇直司「啓蒙理解のゆくえ―フーコーとハーバーマス、社会哲学の変容」『思想』855号(岩波書店、1995年)



■ ハーバーマスによるフーコー批判(1)
 歴史を系譜学的に分析し、反権力の立場を展開していくフーコーの分析方法に対して、ハーバーマスは以下の三つの指摘によりフーコーの方法の客観性が疑わしいものとなることに言及する。

(1)意図せざる現在中心主義der unfreiwillige Präsentismus
(2)不可避の相対主義der unvermeidliche Reativismus
(3)恣意的な党派性 die willkürliche Parteilichkeit (2)

 これは(1)記述者が出発点にする状況に拘束され、歴史の記述が、意図しないままに現在に中心を置く立場をとってしまい、(2)そのような現在に結びついた分析が、そのつどコンテクストに依存した実践的な企てとしてしか理解されないため、不可避の相対主義に陥り、(3)その批判が、自らの規範的土台を排除し得ないために、ある特定の党派的な立場を恣意的にとらざるを得ないようになってしまうこと (3)と説明される。以下、この三つを詳細にみていきたい。

 (1)フーコーのような系譜学的な分析方法をとるということは、解釈学的な問題構成や、意味理解による対象領域への接近の際の自己言及性の消去を必要とする。つまり、解釈学のように、行為や思考をそれらの主体の自己理解が組み込まれている伝統の脈絡にもとづいて理解しようとはしない。そこでは出来事が生じているその地平を土台にある実践から説明しなければならない (4)。伝統に裏づけされた意味からではなく、そこから脱落してしまうような些細な諸々の出来事から歴史を説明しようとする。では、この系譜学とはいったいどのような特徴を持つものなのだろうか。ハーバーマスは三つ、提示している。

1.系譜学は近代における現在中心の時間意識の克服を目指したものである。近代の時間意識の特徴としては、現在が特権化され、未来は課題と責任を課すことでその圧力を現代に行使し、そして過去は現在にナルシスティックに結び付けられる。このように現在を出発点とし、そこからの意味で歴史を紡いでいくことはしない。このような時間意識に対して系譜学は、現代を正当化するための「起源」を用いるのではなく、言説編成の偶然のはじまりを暴きだす。ここでは分析者自身のアイデンティティの見せかけも解体しまうのである (5)。
2.その結果、解釈学とは異なる方法論をとることになる。フーコーのような分析方法をとることは、歴史家が自己自身の再発見のために対象と結びつくというような作用史的な連関を用いることとは異なる。多弁な記録文書を意味の担い手として捉えることなく、無言の記念碑に引き戻す。そうすることで当初のコンテクストが解体され、その歴史の対象の成り立ちが、さまざまな権力闘争からの偶然の浮き沈みに基づくことを明らかにする(6) 。
3.そうすることで単一の統一された包括的な歴史記述からの決別が可能となり、意味の連関として示されるような歴史の虚偽の連続性を解体できるようになる (7)。

 こうしてフーコーの用いる系譜学は人間学的思考に縛られた歴史記述を破壊することができる。自分の立ち位置を括弧にくくり、言説を外から分析し、これまでの恣意的な歴史構成により排除されてきた異質な諸要素に光を当てていく。
では系譜学的な分析法で明らかにされる歴史は、どのように展開し、様々なできごとが生起し、その歩みを進めていくのであろうか。そこでは原因―結果の連続からなる意味の連関はもはや存在しない。残されているのは偶然の出来事のみであり、「言説は気ままな編成の結晶体に覆われた氷山」になる。そしてここでの歴史の展開は権力から説明されるようになる。歴史の浮き沈み、出来事の生起を権力の意志からのみで説明を展開していく(8) 。
このようなフーコーの歴史記述では、歴史を権力一般の隆起という唯一の規定以外なんら互いの共通性をもたない言説の世界の形態変化として、意味ならざるものとして万華鏡のように変化するその形態変化として考える必要がある(9) 。
だがここでは、もろもろの権力の技術や支配の実践は、相互の比較によってしか説明することができず、その比較のための視座は、説明を行う際のそれ固有の解釈学的な出発点の状況と似たようなものとなる(10) 。そうなるとフーコーがとろうとする客観主義的な立場は怪しいものとなり、解釈学のように現在との結びつきをもった時代区分の仕方に従わざるを得ない。それは、狂気や知・思考のあり方、刑罰制度の歴史をめぐって中世、ルネサンス、古典主義時代を比較するとき、現在の諸問題がどのような変遷を追ってきたのかを出発点にするからである。フーコーのとる系譜学的な分析は、客観主義と時代診断を両立させようとする際の論理的な行き詰まりder Aporieから逃れられないでいる (11)。
あらゆる知への意志の客観主義的幻想を暴きだすことは、歴史の記述を歴史学者の立場に都合よく合わせる羽目に陥る。どの立ち位置にも拠らず、客観性を保持しようとするのは、結局は自らに都合のいい立場での分析に他ならないということが明らかになってくる。こうしてフーコーの方法は、現在の要求のために、過去の観察を手段化してしまう、という現在中心主義に陥ってしまっている、とハーバーマスは指摘する (12)。

(2)次に相対主義としての批判について説明する。フーコーは、ここでは自己言及性に捉えられている、とされる (13)。フーコーのとる系譜学的分析は、権力の実践を言説の構成の働きにそくして行われるという経験的分析に他ならない(14) 。その研究が妥当性をもつかどうか、その研究が権力批判として成立するかは、その研究対象である権力の実践に依存している。もしその前提が正しいとしても、フーコー自身もその権力作用に刺激され、権力作用によって探求させられていることになるので、そもそもの自分の研究の妥当性自体を揺らがすような研究となってしまっている。これがハーバーマスの指摘するフーコーの自己言及性である。
このような自己言及性から逃れるために、フーコーは系譜学的歴史記述を自らに適用することで、人間諸科学から区別しようと試みる。そうして人間諸科学に取って代われるような科学性を獲得することではじめて、系譜学的分析はオルタナティブとしての妥当性を得ることができる (15)。
 こうしてフーコーは知の系譜学を展開していき、知としての資格を奪われた知や、排除や従属を強いられた知を拾い集めていく。系譜学的歴史記述によって、権力と結びついた知に対して、そのような追いやられた知を対抗させることで、真理性を持ちうる科学性を系譜学に結び付けようとする。だがこのような試みは、その妥当性はもはや民衆の知につくから、というその一点からしか考えることができなくなる。フーコーの研究は「正当性を帯びた知」対「追いやられた知」という構図、すなわち「権力」対「対抗権力」という図式から逃れることができないのである。
したがって、フーコーの系譜学的探求は決してどちらが正しいと言うことができないような相対主義的な対立構図を持ち出すかできないのである。

(3)最後に、恣意的な党派性、隠れ規範主義Kryptonormativismusという批判について。これは表面では規範的なもの一切から自由な立場を表明しておきながら、隠れたところではある特定の規範的な立場をとっているような態度のことを指す(16) 。これはフーコーが批判する人間諸科学がとっているような態度である。これがフーコーに適用されるということは、人間諸科学の主張する価値自由を批判しながら、新たにフーコーの系譜学が主張する価値自由という基礎付けがすでに価値自由でない、ということを意味する。フーコーは「価値自由たれ」という規範を行使しているのであり、ここではポストモダンの前提に立つのではなく、ポストモダンなレトリックを駆使し、よりよきものへむけての政治参加への意志が貫徹されている自らの論を展開させている、とハーバーマスは指摘する(17) 。
 フーコーのこのような体制批判が正しくなるためには、人間主義の言説を打倒するという事実から導き出すしかない(18) 。人間諸科学の知と、権力との結びつきが抑圧、搾取、排除の実践を遍く展開しているとき、その体制批判は妥当なものとなるだろう。そうしてフーコーは系譜学的な歴史記述を、権力の編成に対しての交戦の手段として用いる(19) 。だが、なぜ抵抗しなければならないのか、という問いからは逃れることができない。ここでフーコーは、対抗権力を言説に先立つ指示対象として崇拝するごとき自然主義的な形而上学を拒否している。つまり、すべての根拠に「対抗」を用いるようなことはしていない。だが、そこでは批判の規範的土台への問いに答えること、なぜ抵抗するのかという問いに答えることを破棄せざるを得ないのである(20) 。

■ おわりに
 ではこの三つのハーバーマスによる批判はそれぞれの研究によってどのように扱われているのだろうか。最後に山脇(21) と杉田(22) の論文に触れて終わりとしたい。
 まず山脇についてであるが、ハーバーマスの三つの批判を詳細に取り扱うことはしないが、この批判はフーコーの近代観に対するハーバーマスの不信感の表れとして捉える。山脇によると、近代の法体系は人権の保証という観点から、個人は理性的主体として積極的に把握することを望むのがハーバーマスの特徴なのである。フーコーをニーチェ主義者のポストモダニストとしての位置づけしか与えられないハーバーマスの姿勢が、この論文では指摘される。
 次に、杉田の論文では、(1)の「現在主義」については、「現在」の偶有性を暴き続けるフーコーの系譜学的立場が無批判に「現在」の保守に結びつく「現在主義」につながるとは考えられない、とする。これについてはハーバーマスの複雑な論証を検討していないとして、建設的な反論ではないと片付けてもいいだろう。
(2)の「相対主義」については、道徳的普遍主義を批判するからといって直ちにそれが「相対主義」であるとはいえない、とする。ここでも杉田の指摘はハーバーマスの文意を充分に汲み取っているとは言えないが、倫理に関するフーコーの議論の問題点と社会秩序の編成との関係を述べる杉田の考察は興味深い。
(3)「恣意的な党派性・隠れ規範主義」に対してはフーコーには抵抗・反抗への偏愛はあるが、それはフーコー自身の「権力」の定義と密接に結びついている、とする。ここでは、フーコーの抵抗・反抗への偏愛だけでなく、フーコー自身の権力の定義との密接な結びつき、という点では杉田の批判は正しい。杉田は「 は権力を悪いものと見なし、それをなくそうとしているが、権力関係はけっしてなくなることはない」と述べ、フーコーのいう権力が国家権力などのトップダウン型の「権力=悪」と描写できるようなものではなく、あらゆる個々人の関係性においてはたらくものとして正しく捉えることができている(23) 。ここではハーバーマスがフーコーの権力観を正しく把握していなかったこと、あるいは『近代の哲学的ディスクルス』では『知への意志』までの分析が扱われていること、資料に恵まれなかったことが指摘しておける。

 ハーバーマスの批判は執拗であり、それゆえにそこからの論争の発展は困難であり、当研究にとって示唆的といえるものではないことがわかった。またこれが主として系譜学的なフーコーの方法論を扱うものであるのも原因の一つである。ハーバーマスを出発点とする構想は事実上の破綻といえよう。



(脚注)
1 今回の発表は『近代の哲学的ディスクルス』の第Ⅹ章で取り上げられていた三つの批判を中心にまとめたものである。このテクストでは、第Ⅸ章、第Ⅹ章がフーコー読解・批判に割かれており、1980年くらいまでのフーコーの著作を中心に、その出版の若いものから順番にハーバーマスの見解が加えられていく。第Ⅹ章での三つの批判を中心とするこの発表での展開の仕方は、フーコー=ハーバーマス論争を扱う諸論文が「ハーバーマスのフーコーに対する批判」として挙げるそのやり方と同様の道筋をとる。本来ならばそのような他の研究論文との差異を生じさせるために第Ⅸ章、第Ⅹ章を包括的に把握し、図式的にも明白な形で発表に望むべきであったが、完全に理解した形で充分に展開できなかったことが残念である。テクストはHarbermas, Jürgen, Der philosophiche Diskurs der Moderne(Frankfurt: Suhrkamp, 1985).〔三島憲一、木原利秋ほか訳『近代の哲学的ディスクルスⅠ・Ⅱ』(岩波書店、1990年)〕を用い、以下DMと略し頁数を記し、そのあとに邦訳頁数を記す。なお、他のハーバーマスによるフーコー批判のテクストの一つである“Mit dem Pfeil ins Herz der Gegenwart Zu Foucaults Vorlesung über Kants Was ist Aufklärung,“ in Die Neue Unübersichtlichkeit (Frankfurt am main: Suhrkamp, 1985).〔三島憲一訳「現代の心臓に矢を打ち込む」『現代思想』第14巻第10号(青土社、1986年)〕では、『言葉と物』での近代の人間諸科学の批判と、晩年のフーコーが依拠する「啓蒙とは何か」でのカントの親和性との矛盾の指摘を中心に展開されている。
2 DM.S.325,p.490
3 DM.S.325,p.490
4 DM.S.325,pp.490-491
5 DM.S.293-294,p.442
6 DM.S.294-295,pp.442-444
7 DM.S.295-296,pp.444-445
8 DM.S.297-298,pp.447-448
9 DM.S.326,p.491
10 DM.S.326,p.492
11 DM.S.326-327,p.492
12 DM.S.327,p.493
13 DM.S.327,p.493
14 DM.S.327-328,pp.493-494
15 DM.S.328,pp.494-495
16 DM.S.331,p.498
17 この「隠れた規範」を知識人の役割としてフーコーを上手に引き継いだのがサイードである。(『知識人とは何か』平凡社ライブラリー)だがもちろん抵抗やそのための実践が知識人に対しての規範となりえても、社会秩序に構築に向けての一般的な倫理規範の基礎付けとすることはまだまだ困難だろう。
18 DM.S.332,p.500
19 DM.S.333,p.501
20 DM.S.335-336,p.504
21 山脇直司「啓蒙理解のゆくえ―フーコーとハーバーマス、社会哲学の変容」『思想』855号(岩波書店、1995年)
22 杉田敦「啓蒙と批判―カント・フーコー・ハーバーマスについての断章」『法学志林』93巻3号、1996年
23 “The Subject and Power”, in Dreyfus et Rabinow, Michel Foucault: Beyond Structuralism and Hermeneutics (Chicago: The University of Chicago Press, 1982).〔「主体と権力」渥海和久訳、『ミシェル・フーコー思考集成』第9巻(筑摩書房、2001年)〕参照。
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by kokem-omo | 2008-04-19 12:42  

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