ミシェル・フーコーにおける「倫理」の検討

―82年度講義『主体の解釈学』を通して―


【序章 倫理の問題と晩年のフーコー】


○ 研究の意義
 世界で二番目に経済的に豊かな国での生活が、必ずしも幸福と結びついたものでないという点から出発する。生きがいのある人生、目的がしっかとした充実した人生は、幸福な人生、安定した人生の一つの形と言うことができるだろう。ここでは国家のために生きること、宗教において厚い信仰を持つこと等を思い浮かべることができる。これらに共通して言えることは、善悪の体系が貫徹していること、行動の指針を示してくれること、規範に沿って生きることで常態的に正義を実践できることである。
 道徳が崩壊している、愛国心が必要だ、他人を思いやる気持ちがない、こうした倫理に関する危機感が社会を覆っている。そしてこのような「現代社会の病理」には道徳、真理、善悪、倫理、規範の問題が大きく関連し、それは思想的状況と結びついている。ポストモダンと言われるこの現代の思想的状況を、大澤は「第三者の審級」の凋落と言い、東は「大きな物語」の失墜と表現する(1) 。こうした現代日本における倫理的状態といかにして向き合っていけばいいのだろうか。ここで、一つの例をあげる。一部のエリートには社会を統治することを喜びとする生きがいを与え、それ以外の一般大衆にはファッションやレジャー、消費を生きがいとさせる。善悪の体系のフォーマットをあらかじめ設計し、エリートと大衆にそれぞれ完結した体系を分け与える。宮台が主張するこのような社会統治しか、選択肢としてもはや残されていないのであろうか(2) 。

 この現代社会の病理とも言われる倫理の問題と同じく重要なもうひとつの問題は、9.11以降その重要さが増している異文化の共存・対話である。ここで多文化主義を支持する相対主義者は、宗教原理主義、極右勢力、「自爆テロ」に対し、いったい何を立脚点に批判を展開できるのだろうか。実際このような生半可な批判的議論は相対主義者には決して為し得ることができない。こういった批判を可能にするのは、「共存」を暗黙の前提に置く相対主義とはなりえない多文化主義だけである。現実においてこうした多文化主義が実践するのは、共存ができる程度にまでその多様性、差異を許容できる範囲にまで近づけていくために、異分子を排除し、潰していくことである(3) 。それぞれまったく異なる善悪の体系を持つもの同士が共に過ごしていくとはどういうことだろうか。共存は可能か。そもそも共存は必要か。

 社会の病理の問題と、共存・対話の問題。このような現在の社会状況を視野に入れたとき、「倫理」を研究対象にする理由は疑う余地のないほど十分に存在する。ここで「道徳的価値がその『威光』を喪失し、伝統的な基準が崩れてしまったという繰り言については、フーコーはだれよりも知り尽くしていた」(4) とフレデリック・グロは述べ、倫理の研究に占めるミシェル・フーコー(5) の議論の重要性を示唆する。一般的にフーコーはこのような道徳的価値、伝統的な規範の基準を強い批判にさらし、攻撃した思想家として有名である。そのような批判、攻撃によって社会には様々な問題が生じてくるのだろう。そうした状況を「知り尽くしていた」フーコーは、「人のふるまいや生に与えられるべき形式としての倫理の問題が、また新たに提起されたのです」(6) と言い、倫理の問題、「真理と主体」への研究をはじめることになる。
このフーコーの倫理の議論は、上で挙げたような現代の倫理的な問題に向き合っていくなかで、非常に重要な視座を提供してくれるように思われる。このような問題意識と期待との下で、本論文はフーコーのコレージュ・ド・フランスにおける1981-1982年度講義、『主体の解釈学』を中心に展開していく(7) 。まずフーコーにおける倫理の思想の位置づけを示す。そして第一章から第三章で『主体の解釈学』をまとめあげ、終章では簡単な考察を載せる。こうした作業を通じて後期フーコー(8) における倫理の議論への理解を深め、この議論が現代において持ちうる有効性について検討することを、本研究の目的とする。

○ 展開にあたって ―晩年のフーコーの思想―
 一般的にフーコーの研究においては「狂気」、「言説」、「権力」、「性」等に関する議論が有名で社会に広く知れ渡っている。本論文での倫理の議論をみていくにあたって、ここでは倫理、主体の議論がどのような位置づけを持つのか、簡単に記していきたい(9) 。

 私の問題はつねに、―(中略)―主体と真理の関係の問題だったのです。すなわち、主体はどのようにしてある種の真理のゲームに入り込むのか、ということです(10) 。

1984年に行われたインタビューでフーコーはこのように答え、これまでの研究において一貫して主体と真理の問題が念頭にあったことを示す。狂気がある種の医学に依存する病気として問題化されるようになったのは何故か、という問いをたてたことからもわかるように、知の体系、真理によって主体化させられ、決定付けられていくという問題が根底に一貫していたのだ。
司法の領域と精神医学との関係を述べた発表文においても、これは読み取ることができる(11) 。司法制度の移り変わりにより、法に触れた人たちを裁くに当たって動機、人格や良心が判決において考慮されるようになる。それは事件当時の状況や被告人の状態を考慮することなしに、有無を言わさず刑罰を適用していたそれ以前の時代に比べると進歩と言えるかもしれない。だが犯罪の動機、被告人の人格、性向、こうしたものをいったいどのようにして知ることができるだろうか。ここで脚光を浴びるのが「動機の専門家」としての精神科医である。そして心理学や精神医学において「狂気」とレッテルを貼られた人々は監獄へ収容され、社会から排除されていく。その判断材料を構成する「人間」をめぐる知の体系の分析に当たるのが『言葉と物』(12) であり、排除や収容といったものの実践面での分析で、権力の諸制度を詳述したテクストが『監獄の誕生』(13) ということができる。性の制度、体系の面では『性の歴史Ⅰ 知への意志』(14) がその役割を果たす。
こうした知の体系、真理との権力の結びつき、その実践への対峙を扱ったテクストとして「主体と権力」を挙げることができる(15) 。

  おそらく今日における標的は、私たちが何者であるのかを見出すことではなく、何者かであることを拒むことであろう(16) 。

権力と結びついた知の体系、規範のうちに自らの立ち位置を見出すことは、主体化=従属化を必然的に伴う。そのような主体化を拒否し、あるべき主体化の体系を考察していくことが重要となっていくのである。ここでは「主体」の問題、その探求の必要性がより一層鮮明な形で浮かび上がっていることを見ることができるだろう。
その知の体系、真理、道徳の根本からの問い直しの試みが『性の歴史Ⅱ・Ⅲ』(17) はみられる。この時期から古代ギリシャ・ローマへと探求の対象の時代を移す。性における知の体系、あるべき振る舞いとそうでないものは、道徳として決められているのでなく、アフロディージア(愛欲の営み)として存在していたのである。そしてこの「主体と真理」の問題を性の領域だけに限らず、より一般的なかたちで考察していくのが『主体の解釈学』なのである。



【第一章 〈自己への配慮〉と『アルキビアデス』】


 『主体の解釈学』で中心の概念となっているのが〈自己への配慮〉である。そして〈自己への配慮〉の考察で最も重要なテクストが『アルキビアデス』(18) となる。主体と真理の関係の問題において何故〈自己への配慮〉が重要となってくるのであろうか。『アルキビアデス』で描かれている〈自己への配慮〉とはどのようなものなのだろうか。以下、順を追ってみていきたい。

第一節 哲学と霊性
 主体と真理の関係の問題を考察する上で、広く認知されている重要な定式は〈汝自身を知れ〉である(19) 。これはデルフォイの信託における掟として有名なものであるが、自己認識によって真理に到達するという点で、主体と真理の関係で現在一般的に中心をなすものと考えられている。近代以降の哲学において〈汝自身を知れ〉というこの定式は、とくに「デカルト的契機」と呼ばれるものにより重要性を増してきた(20) 。それは主体が自己認識によって真理に到達することが重視され、〈汝自身を知れ〉が真理に到達する根本的な手段となったことをいう。
 だが主体と真理の問題を考えるときフーコーはこの〈汝自身を知れ〉からでなく、〈自己への配慮〉を軸に探求を進めていく。このときこの二つの定式を区別しているのは、主体が真理へ到達するための方法である(21) 。〈汝自身を知れ〉の方の軸は、「哲学の問題」と呼ばれ、「主体がいかにして真理に到達することができるのか」というものである。他方、〈自己への配慮〉の方は、「霊性 の問題」と言われ、「真理に到達するにはどのような主体の変革が必要か」を問うものである。この際「霊性」とは、「主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験」(23) を指す。
 〈汝自身を知れ〉という「哲学の問題」、自己認識の問題が現在では重要とみられているのだが、古典古代(24) の時代においては「哲学」と「霊性」の問題はこのように切り離され別々に語られることはなかった。プラトンの『ソクラテスの弁明』においても、この〈汝自身を知れ〉は、大部分が〈汝自身に配慮せよ〉と結びつけられて現れていた(25) 。また、「デカルト的契機」と言われるような自己認識への重要性の移り変わりがあったにしても、それ以降の哲学者のうちでは(26) 、主体の問題を考察するなかでこの「霊性の問題」はしばしば意識されていたと言う。
 したがって道徳の揺らぎに際して主体と真理の関係の問題を考えるとき、〈自己への配慮〉、「霊性の問題」の軸からの問い直しが重要となってくる、とフーコーは認識しているのだ。

第二節 『アルキビアデス』
 そして〈自己への配慮〉をみていくなかで重要となるテクストが、プラトンの『アルキビアデス』である。ここではアルキビアデスにおいて、権力を行使するものとしての統治、教育の欠如、無知の三点から〈自己への配慮が〉必要となってくる(27) 。そして〈自己への配慮〉の大規模な理論的出現として、二つの体系的な問題が提起される(28) 。「自己とは何だろうか。」「配慮とは何だろうか。」
 端的に回答すると、自己とは魂のことである(29) 。これは行動の主体たる限りでの魂、身体を、身体の器官を、この道具を使うものである限りでの魂なのである。魂とは主体であり、行動の主体としての魂である。
 では配慮とは何をすることなのだろうか。ここで示されるのは、〈汝自身を知れ〉と〈自己への配慮〉の錯綜なのである(30) 。配慮とは自己認識であり、自分自身を知るということなのである。プラトンの思想においては、この〈汝自身を知れ〉により、他の一連の諸技術は統合されていく。ここでの「配慮する」という問題も例外ではない。〈汝自身を知れ〉が主体と真理の関係の問題において中心的な位置を占める現在から見て、このテクストで示されるこの一致とも見られる錯綜は非常に重要なものとなる。
 さて、この『アルキビアデス』において自己への配慮の存在理由と形式を規定している三つの条件をここに示す(31) 。一つ目は、自己へ配慮しなければいけないのは誰か、ということである。自己への配慮の対象は、アルキビアデスのような都市の指導に関わる若い貴族に限定されるからだ。次に、都市の統治に関連して、権力を適切に行使するための配慮である。三つ目は、自己認識と結びついた自己への配慮が示されていることだ。『アルキビアデス』を貫徹する〈自己への配慮〉に関するこのような条件は、時代の変遷によりどのように変化していくのであろうか。次章では、この変化を示していく形で〈自己への配慮〉の黄金時代といわれる紀元一世紀から二世紀の時期をみていく。
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by kokem-omo | 2008-01-26 20:03  

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