日本政治史ノート

1.終戦
東久邇稔彦に代わり、45年10月、米英との関係が良好だった幣原喜重郎が首相に選出される。幣原が高齢で、また政治から長年離れていたことよりこれは長く続かなかった。GHQの鳩山追放を受けたこともあり、幣原の次には46年、吉田茂が組閣することになる。だが47年4月の選挙では社会党が多数党となり、その選挙結果を受けて片山内閣が発足する。吉田は保守過ぎ、共産は過激すぎとの見方より、片山内閣はGHQ左派のGSの意向に沿うものであった。しかし炭鉱国家管理など社会主義的政策には周囲の反発が大きく、48年芦田内閣の誕生を招く。ここで芦田自身は優れたリベラルであったが、政権基盤が弱体で、昭和電工事件がその弱さに追い討ちをかける。

その後、吉田茂が復活する。ここではドッジ・ラインによる緊縮財政による経済立て直し、朝鮮戦争の際に再軍備を拒んで警察予備隊で切り抜けたこと、そしてサンフランシスコ講和条約、日弁安全保障条約締結など、数多くの重要政策をこなした。その後、抜き打ち解散、バカヤロー解散を経て、造船疑獄の発覚により吉田政治の終わりが告げられる。そして54年に民主党の鳩山一郎が首相となり、単一保守党である自由民主党が成立する。

2.自由民主党の誕生
鳩山首相が日ソ国交回復を遂げたあと、石橋湛山が首相の座に就くことになる。小日本主義を掲げるリベラルなジャーナリストである石橋であったが、発病により57年、岸信介に内閣を譲ることになる。憲法と安保条約の改定が岸の目標であったが、米国の戦略に組み込まれることに対して内外で反発が強まった。60年には「安保反対」のデモ隊の国会突入、東大生の死亡などで岸は追い詰められていく。

この次には60年、池田勇人が首相となる。池田は所得倍増計画を打ち出したこと、社会党の浅沼の刺殺事件に対する追悼演説が有名である(毎日新聞の長尾靖がピューリッツァー賞を受賞した写真の事件)。病気による池田の辞任後、64年に佐藤栄作が後任総裁・首相となる。佐藤在職中にGDPが2倍となり、世界第二位の経済大国に。また、二度のニクソンショックに見舞われた時期でもある(①日本の頭越しになされた米中国交正常化、②金とドルの交換停止により円・ドルが変動相場に)。

3.保守政治の安定化
72年、佐藤の後に就いた田中角栄は、中国との国交正常化を果たす。日本列島改造論が有名だが、オイルショックによる物価高のあおりを受け、さらに立花隆の「田中角栄研究」『文藝春秋』により辞任に追い込まれる。74年、三木武夫が総裁となるが、ロッキード事件による田中の逮捕、「三木おろし」の政争激化により76年に福田政権が生まれる。ここでは日中平和条約やマニラでの福田ドクトリンが有名であるが、総裁選で大平に敗れ、首相の座を譲ることに。

78年、ハト派の大平正芳が首相となる。「田園都市構想」など、経済・外交政策に明るい大平であった。だが、党内抗争の激化の中、心筋梗塞で倒れてしまう。その後、80年に宏池会の鈴木善幸が首相となるが、元来首相に向かなかったことに加え、訪米の際の「日米同盟には軍事的な意味を含まない」との発言が混乱をもたらす。

4.栄光の翳り
82年、田中派の支援を受けた中曽根康弘が首相となる。訪韓し全斗煥大統領と、そして訪米しレーガン大統領と会談する。「日本を不沈空母にする」との発言や防衛費のGNP1%枠撤廃、靖国神社の公式参拝などの保守的行動が目立った。また国鉄の分割民営化や、内需主導を目指す「前川レポート」も有名である。その後、田中派の衰退を受け87年には竹下内閣が成立することになる。消費税導入などの大仕事をやり遂げるがリクルート事件を受け退陣へ。

89年には宇野宗佑が首相に就任する。だが女性スキャンダルや自民党批判の高まりより、宇野内閣は短命に終わる。同年海部俊樹が総裁となる。湾岸戦争の際には、巨額な資金提供にもかかわらず貢献として認識されなかったことが、今後の安全保障政策に尾を引くことになる。その後の海部辞任に伴う総裁選では、反竹下派連合YKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)が組まれる。そして91年に宮沢喜一が首相に就任するが、竹下派会長の金丸信に対する佐川急便からの裏金事件が発覚し、宮沢政権は大きく揺さぶられる。

5.非自民の流れ
小沢一郎の政治工作により、93年日本新党の細川護熙を首相に、「九三年の政変」と呼ばれる非自民連立政権が誕生する。細川は選挙制度改革や政治改革、コメの市場開放などをやり遂げた。だが自民党から佐川急便からの借り入れを追及され、細川は辞任、94年に新生党の羽田孜が首相に就任する。しかし社会党との連立復帰交渉がまとまらず、短命に終わり、村山内閣が成立することになる。村山談話の発表、社会党の日米安保体制堅持、自衛隊合憲への踏み出しなど新しさが目立ったが、阪神大震災、地下鉄サリン事件に際して危機管理能力を問われ、参院選では社会党が惨敗する。

6.迷走の日本と共に
96年、宮沢内閣以来の自民党総裁としての首相に橋本龍太郎が選ばれる。日米安保共同宣言を発表し、消費税5%を公約に選挙も乗り越えた。だが深刻な不良債権問題による北海道拓殖、山一の破綻により、財政再建路線は再考迫られることになる。こうして橋本の退陣後、98年に小渕内閣が成立する。地域振興券に国債増発と財政支出路線をとる。同時に自自公連立によりガイドライン、住基法、日の丸・君が代などを次々に形にしていく。しかし、突然の脳梗塞に見舞われ、帰らぬ人となる。

00年、森喜朗が昇格により首相に。「加藤の乱」は切り抜けられるが失言などが重なり、森では選挙を乗り越えられないと言われ、退陣を余儀なくされる。そして次の01年の総裁選では、国民の人気の高い田中真紀子の支援を取り付けた小泉純一郎が圧勝する。日朝平壌宣言や米国との関係強化には寄与したが、靖国参拝により対中関係の冷え込みをもたらした。そして財政再建路線の弊害は、今の社会が目の当たりにしている通りである。

そして安倍、福田、麻生内閣を経て、政権交代後、現在の民主党の鳩山内閣にいたる。

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今回学んだことは、人々から湧き出た思いが社会を動かすのではないこと。時の情勢が政争の具として献立に並び、政治家の一声で調理される。この年になるまで世の中の動きをよく知らなかったことを恥じるばかりである。誰が社会を動かしているのか。人々でもアカデミックな場でもないことは確かなようだ。霞ヶ関か、財界か、ほんとに永田町なのか。答えを知るにはまだまだ時間がかかりそうだ。


【参考文献】
伊藤昌哉『自民党戦国史』、北岡伸一『自民党』、冨森叡児『戦後保守党史』、星浩『自民党と戦後』
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by kokem-omo | 2009-11-28 03:04  

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