ペンの強さを考える

『信濃毎日新聞』の主筆であった桐生悠々は1933年、「関東防空大演習を嗤う」との社説を発表し、演習を批判。国を空爆に曝す想定のもとでの演習の滑稽さは、指摘されて当然である。だが当時の状況、ジャーナリズムでは信濃毎日しか、その無謀さを批判しなかった。当然、強い非難にあい、信濃毎日は軍部の不買運動を被る。会社と軍部中枢とが折衝して解決策を講じるが、桐生は退社に追い込まれることになる。

鈴木東民は朝日新聞入社後、1926年に電通社員としてドイツに留学する。そこでナチ党の横暴、異常化するドイツ社会を報じ続ける。1934年、特派員追放を受ける前に、家族の安全を考慮しナチスドイツから帰国。その後、ドイツ通を必要としていた読売新聞に外報次長に招聘される。鈴木の極端な反ナチ主義はもちろん目に付き、憲兵隊、ドイツ大使館から鈴木を退社させるよう読売は迫られる。だが正力松太郎は軍部とドイツの圧力に屈せず、鈴木を退社させなかったという良い話。

こうしたいくつかの名ジャーナリストがかつて日本にも存在したのだが、やはり本場はアメリカ。政府や世論の圧力に屈することなく、後世に語り継がれるようになったケースが少なくない。

1971年6月のニューヨーク・タイムズ紙の「ベトナム秘密文書」報道も、その代表的なものである。これはベトナム政策をめぐる米政府の欺瞞を暴露したのものであり、怒った米政府は報道指し止めの裁判を起こす。結局、最高裁まで闘って新聞側が勝訴するのだが、ニューヨーク・タイムズ紙が差し止められると、ワシントン・ポスト紙、ロサンゼルス・タイムズ紙と「リレー掲載」していったという連帯感も見事であったようだ。

91年の湾岸戦争時には、CNNのピーター・アーネット記者がバグダッドに残留して報道を続けた。当時、イラク政府の宣伝に利用されたとして米世論から激しい非難を浴びた。このような敵国からの報道のさきがけとなったのが、ニューヨーク・タイムズのハリソン・ソールズベリー記者である。ベトナム戦争中の66年にハノイ入りしたのだが、たぶんに漏れず国賊呼ばわりされた。最も、両者とも今ではあるべき記者像として語り告がれることになっていることが何よりも安心なのだが、こうした非難が毎度繰り返されるのが世の常なのであろう。

このようなかっこいい事例を生み出す原動力として、署名記事の制度がある。欧米ではジャーナリストが職業人として確立しており、署名が入るのは当然とされる傾向にある。それに対し、日本の新聞では全員が企業記者でチーム取材を重視し、一人ひとりの記者が独立の職業人として扱われにくいという現状がある。もちろん、人海戦術に優れたチームワークで社会悪を暴いていく姿は、それ自体、褒められるべきことである。

ジャーナリストの質の向上を目指し、署名入り記事を進めようという傾向もある。毎日新聞が96年から原則署名の方針を打ち出したり、それ以前より「記者の目」欄がおもしろいとして評判になったことなどが例として挙げられる。だが、社の判断・主張と違った記事が記者の裁量で現れることで、朝日や読売などが紙面に乱れが出るのを懸念しているというとも言われる。

もちろん、何も欧米や戦中でなくともスター記者は歴然と存在してきた。54年3月に「ビキニの死の灰」を報じた読売、安部光恭記者。「昭和史の天皇」の2795回にわたる長期連載、読売きっての名文記者と言われた辻本芳雄記者。その他にも読売社会部の全盛期を支えた本田靖春記者などが著名である。

朝日も負けていない。59年の東大山岳部員遭難死、伊勢湾台風を独特の視点で切り込んだ疋田桂一郎記者。縮刷版から引っ張ってみたが、ひねり方が何とも絶妙である。もちろん、当時の文脈の中で見てみないと何とも独自性がわからないというのが真理だろうが、ああ、とがっててもいいものかととても安心と希望を与えてくれる。同じく、作文でお世話になったりするエスキモーやアラビアのルポや、「戦場の村」で有名な本多勝一記者も忘れてはならない。

ここでおもしろいのは、スター記者はそれ自体として成長したのではないという点だ。読売では原四郎、朝日では田代喜久雄などの名編集者が、彼らの個性をうまく伸ばしてあげたことがスター記者の誕生につながったのである。

同じく、今では調査報道や提言報道と呼ばれるキャンペーン報道も、日本のジャーナリズムの長所でもある。読売の64-66年の「黄色い血」追放キャンペーンにより、売血制度から安全な献血制度への転換につながった。58年に朝日が繰り広げた神風タクシー追放キャンペーンは、個人タクシーの誕生に寄与した。また69年の欠陥車キャンペーンは、当時こそ日本車の汚名を広げるなと風当たりも強かったが、結果的に品質向上に貢献したのである。

だが、新聞も「マスコミ」と総称され糾弾されるとき、報道の問題点は見過ごされるべきではないだろう。その負の側面をはらむ代表的なものとして、犯罪報道がある。ジャーナリズムが犯罪事件を大きく取り上げる目的は、社会の病理を人々に知らせ、犯罪防止に役立てるためだ、とされる。だがホンネとして、読者や視聴者の関心が強いので追っかける、という面も大きいだろう。

それだけでなく、「見せしめ」という刑罰自体を担っている、という指摘が的を射ていると思う。容疑者の連行場面の報道などは、市中引きまわしの名残そのものなのである。この点より、日本のジャーナリズムは犯罪者の更生を重視した「教育刑」の刑罰思想ではなく、犯罪者は罪を償うために相応の懲罰を受けるべきだとする「応報刑」の思想に立っている、と言われる。死刑制度を含めた刑罰制度全体のあり方を見直すとき、こうしたジャーナリズムのあり方も同じ場で刑罰という視点より再考されるべきである。

また、人命か報道か、という鋭い倫理的な葛藤に立たされることもあるとされる。85年8月、悪徳商法を避難された豊田商事の永野会長が、多数の報道陣が詰めかけた大阪市北区のマンションで二人組に刺殺された。このとき、残虐なテレビ映像への批判とともに、記者たちが眼前の殺人事件をなぜ阻止しなかったのか、と強く非難された。

同様の事例として有名なのが、「ハゲワシと少女」で94年のピューリツァー賞を受けた南アフリカのケビン・カーターである。世界各地から「カメラマンはなぜ少女を助けなかったのか」という批判が高まるなかで、同年7月、33歳の若さで自殺した。

こうした問題点に関して、まず前者に対しては、昨今の事例では市橋容疑者が新幹線で移送される様子などは必要ないと思う。犯罪報道の目的を意識し直してもいいのではないか、と感じた。

後者の報道か人命救助かというケースは、個々の事例、その場の状況に強く依存すると思う。もちろん、人命救助、その後、報道というのが原則であることを個人的には信じている。一人の命を他の多数の命を救うため、社会善の「手段」として利用してはならないという、カントの規律にしたがって。

サラリーマンでもなく、活動家でもない。その間にある社会との協調とバランスが何とも気持ち悪く感じられるが、最良の手段であると思うので頑張っていきたい。

【参考文献】
鎌田慧『反骨のジャーナリスト』、柴田鉄治『新聞記者という仕事』、原寿雄『ジャーナリズムの思想』、「新聞社の徹底研究」『創 2009年4月号』
[PR]

by kokem-omo | 2009-11-27 01:14  

<< 日本政治史ノート 路上生活と精神疾患(概観) >>